201902/25

著名人が眠るパリの3大墓地 その3 モンパルナス墓地

モンパルナス墓地。奥に見えるのは59階建てのモンパルナス・タワー

著名人が多く眠るペール・ラシェーズ墓地、モンマルトル墓地と、パリ市街の墓地を紹介してきましたが、最後に紹介するのがパリ左岸14区にあるモンパルナス墓地です。ここは500メートル四方ほどあるかなり大きな墓地で、モンパルナス駅からは徒歩10分ほど。今はビジネス街になっていますが、モンパルナスは2つの大戦の間の1920年代は、パリの知識人や芸術家たちが集う場所でした。特に移民や外国人芸術家たち、ピカソ、シャガール、モディリアーニ、ジャコメッティ、ミロ、アメリカからは小説家のヘミングウェイやフィッツジェラルド、日本からは藤田嗣治、岡本太郎などがこのモンパルナスのカフェに集っていたのです。しかしそんな時代も世界恐慌と続く第二次世界大戦で幕を閉じます。そんなモンパルナスにあるのが、この墓地です。では、そこにある墓をいくつか訪れてみましょう。

セルジュ・ゲンスブールの墓

異色の歌手セルジュ・ゲンスブール

まずは日本ではそれほど有名ではありませんが、フランスではその名前を知らないものはいないという歌手・俳優のセルジュ・ゲンスブールの墓へ行ってみましょう。彼は作詞・作曲もする自作自演スタイルで、時には過激な歌も歌い、1965年にフランス・ギャルに提供した「夢みるシャンソン人形」がヒットします。1968年に女優のジェーン・バーキンと出会い、やがて一緒に暮らし始め、2人のデュエット「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」はヒット。娘シャルロット・ゲンスブールが生まれますが、2人は1980年に別れてしまいます。ゲンスブールは1991年に62歳で亡くなりました。彼の墓には今も訪れる人が多いようで、いろいろなものが置かれていました。メトロの切符が置かれているのは、彼のデビュー曲「リラの門の切符売り」にちなんだものだとか。

ジーン・セバーグの墓

悲劇的な死を迎えたジーン・セバーグ

ショートカットの「セシルカット」の代名詞となった女優のジーン・セバーグの墓も、この墓地にあります。アメリカ人のセバーグは、フランソワーズ・サガン原作の映画化『悲しみよこんにちは』(1957)の主演でブレイク。その後、フランスに渡りゴダール監督の『勝手にしやがれ』(1959)でジャン=ポール・ベルモンドと共演し、一躍ファッションアイコンに。しかし以降はヒット作に恵まれず、後年精神を病み、1979年にパリで自動車の中で自殺しているのが発見されました。40歳でした。

ジャック・ドゥミの墓

名作ミュージカルを監督したジャック・ドゥミ

ジャック・ドゥミは1960年代に活躍した映画監督です。1961年に『ローラ』で監督デビュー。1964年、カトリーヌ・ドヌーヴ主演のミュージカル『シェルブールの雨傘』が世界的なヒットをします。セリフがなく、ミシェル・ルグラン作曲による歌によって語られる斬新なスタイルで、主題歌も人々に広く愛されました。近年大ヒットしたミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』が、この作品にオマージュを捧げた作品であることはご存知でしょうか? しかし70年代中盤からドゥミは作品に恵まれず、いつしか忘れられる存在になり、1990年にエイズにより死去しました。しかし2000年代から作品のデジタル修復が進み、そのカラフルな映像美が再評価され、『ロシュフォールの恋人たち』(1967)、『ロバと王女』(1970)がリバイバル上映されました。妻は同じく映画監督のアニエス・ヴァルダです。

アンリ・ラングロワの墓

映画の保存に貢献したアンリ・ラングロワ

最後に、一般的には馴染みがないと思いますが、フランス映画好きなら彼に感謝しなくてはならないというアンリ・ラングロワの墓に私は行きました。トルコ出身のラングロワは、1936年、21歳の時にパリにシネマ・アーカイヴを発足させます。当時、映画のフィルムは公開後には裁断されて再利用されていました。映画は娯楽で、芸術として保存するという考えがなかったのです。こうして貴重な古典作品のフィルムは失われていったのですが、それを私費で収集してアーカイヴを作ろうとしたのが彼なのです。ラングロワによるフィルム上映会により、1960年代の映画運動ヌーヴェルヴァーグを担った、トリュフォー、ゴダールといった若者たちが旧作の再発見をし、作家として育っていきました。1968年には彼の存在を疎んだ政府によりラングロワが更迭された「ラングロワ事件」が起きますが、たちまち内外の映画人による批判を受け、政府はそれを撤回せざるをえなくなりました。ラングロワは1977年に亡くなりました。訪れた彼の墓はその功績を讃えるかのように、映画のシーンがコラージュされたものでした。

いかがでしたか? 自分の趣味を反映して映画人の墓巡りになってしまいましたが、モンパルナス墓地には他にも多くの著名人が眠っています。「怪盗ルパン」で知られる作家のモーリス・ルブラン、『愛人 ラマン』の原作者マルグリット・デュラス、哲学者のサルトルと伴侶で作家のボーヴォワール、詩人のボードレール、劇作家のイヨネスコ、作曲家のサン=サース、無政府主義の父と言われたプルドン、写真家のマン・レイなどが有名です。

 

大通りにカフェが並び、戦間期には芸術家たちが集ったモンパルナス。第二次世界大戦後は、芸術家や知識人たちは拠点をサン=ジェルマン=デ=プレに移り、活況が戻ることはありませんでした。そのモンパルナス大通りから歩いて行ける距離にあるこの墓地、機会があったら足を運んでみてはどうでしょう。故人の墓の前に立ち業績を偲ぶことも立派な旅の目的。そんな“一生モノの旅”があってもいいかもしれません。

 

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モンパルナス墓地に眠る著名人のリスト(https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_burials_at_Montparnasse_Cemetery

 

前原 利行

日々、自分の興味があるものを追いかけています。音楽、映画、アート、歴史、そしてまだ見ぬ世界の風景や文化…。心に刻まれた一生モノの経験が、自分の最大の財産でしょうか。これからも、まだ知らない出会いを探していきたいと思っています。

前原 利行
この記事を書いた人

この記事を書いた人前原 利行

201901/17

フランスのディープスポット!著名人が眠るパリの3大墓地 その2 モンマルトル墓地 [海外旅行 フランス パリ]

墓地の上に高架となっている道路。『大人は判ってくれない』など、フランス映画にときどき登場する

墓地の上に高架となっている道路。『大人は判ってくれない』など、フランス映画にときどき登場する

パリ市街北部にあるモンマルトルの丘。ここは19世紀末から20世紀初頭にかけて、ピカソやモディリアーニ、ゴッホなど数々の芸術家たちが集まってきた場所です。そのモンマルトルの西端に「モンマルトル墓地」があります。ペール・ラシェーズ墓地、モンパルナス墓地と並ぶパリの3大墓地ですが、その中では一番小さいでしょうか。しかしここも多くの有名人が眠っています。墓地は自由に入れるので、近くまで来たら寄ってみてはいかがでしょうか。今回も私が好きな人のお墓を訪ねてみました。パリのお墓巡り、第2弾をお送りします。

愛をひたすら描いた映画監督フランソワ・トリュフォー

映画監督フランソワ・トリュフォーの墓

映画監督フランソワ・トリュフォーの墓

私がこの墓地に行きたかった一番の理由は、映画監督フランソワ・トリュフォーの墓があるからです。今の若い方には馴染みがないと思いますが、私が映画を観始めた高校生時代、トリュフォー作品は名画座の定番プログラムでした。1932年にパリで生まれたトリュフォーは、1959年に自伝的な『大人は判ってくれない』で長編映画デビューをします。この作品は、ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)と並ぶ「ヌーヴェルバーグ(「新しい波」の意味)の代表作品になりました。以降『ピアニストを撃て』(1960)、『突然炎の如く』(1961)、『アメリカの夜』(1973)などの名作を発表。1977年にはトリュフォーを敬愛するスピルバーグ監督に請われ、映画『未知との遭遇』にフランス人科学者役で出演します。しかし1984年、脳腫瘍により52歳の若さで亡くなりました。トリュフォーは暴力を嫌い、生涯、恋愛映画しか撮りませんでした。トリュフォー作品に出会った当時、高校生だった私は「大人になったら、あんな恋愛してみたい」と思ったものです(笑)。トリュフォー映画、いま見てもおしゃれですよ。

サスペンス映画の巨匠アンリ・ジョルジュ・クルーゾー

映画監督アンリ・ジョルジュ・クルーゾーの墓

映画監督アンリ・ジョルジュ・クルーゾーの墓

モンマルトル墓地には、フランスを代表するもうひとりの映画監督、アンリ・ジョルジュ・クルーゾーの墓もあります。1907年生まれのクルーゾーはトリュフォーよりも上の世代。トラックでニトログリセンを運ぶ男たちのサスペンス『恐怖の報酬』(1953)、ホラーのような犯罪もの『悪魔のような女』(1954)は、名作といっていいでしょう。この2本は私が子供の頃によくテレビで放映していたのですが、大人になって再鑑賞したら本当によくできている映画なので驚きました。両作品共、のちにアメリカでリメイクされていますが、クルーゾーのオリジナルは凌げませんでした。機会があったらこの2作品は絶対に観てくださいね。

名曲「枯葉」の作曲者ジョゼフ・コスマ

作曲家ジョゼフ・コスマの墓

作曲家ジョゼフ・コスマの墓

映画つながりですが、ハンガリー生まれの作曲家ジョゼフ・コスマの墓もここにあります。1905年生まれの彼はユダヤ人だったため、ナチスの台頭とともにパリに移り住みます。やがて映画音楽に携わるようになり、ジャン・ルノワール監督の『大いなる幻影』、マルセル・カルネ監督の『天井桟敷の人々』などの名作の音楽を作曲しました。しかし今も多くの人によって歌われ続けているのは、ジャズやシャンソンのスタンダードナンバーとなった「枯葉」でしょう。これは映画『夜の門』の主題歌で、映画では主演のイヴ・モンタンが歌いましたが、フランスではジュリエット・グレコのバージョンがヒットしました。ジャズではマイルス・ディヴィスやビル・エヴァンスの演奏が有名ですね。実はこの曲、フランス版ではみなさんが知っているメロディーの前に長いイントロがあるのですが、アメリカではそれがカットされてしまい、そちらのほうが有名になってしまいました。

伝説のバレエダンサー、ニジンスキー

バレエダンサーのニジンスキーの墓

バレエダンサーのニジンスキーの墓

伝説のバレエダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーの墓もこの墓地にあります。1890年にウクライナで生まれたニジンスキーは、1909年にパリで興行師のディアギレフ、ダンサーのアンナ・パヴロワ、振付師のフォーキンらと共にバレエ団「パレエ・リュス」を立ち上げます。これが大成功し、20世紀のバレエの新しい形を作るのです。フォーキン振り付けの『薔薇の精』『ペトルーシュカ』が話題になった後、自ら振り付けした『牧神の午後』と『春の祭典』は物議をかもすものの、バレエの新時代を切り開きました。しかし1919年以降は精神を病み、引退。1950年に亡くなります。日本では山岸凉子の漫画にもなりましたが、私は映画で彼を知りました。ニジンスキーの踊る映像は残念ながら残されていません。

 

このモンマルトル墓地には、他にも印象派の画家エドガー・ドガ(バレエの絵で有名ですね)、楽器のサックスの発明者アドルフ・サックス、ロマン派の詩人ハイネ、ロマン派の作曲家ベルリオーズなどが眠っています。大きな墓地ではないのでお墓は見つけやすいと思います。あなたのお好きな偉人がいたら、寄ってみてはいかがでしょうか。

坂道が多いモンマルトルは、パリの中でも私が好きな地区です。偉大な芸術家たちが有名になる前に同じ道を歩いたと思うと、気分も高まります。そんな街歩きの合間にふらりと寄れる場所がこの墓地です。ゴッホとテオが住んでいた家や、ムーラン・ルージュ、映画の中でアメリが働いていたカフェからも歩いて5分もかかりません。ここでしばし静けさに浸り、偉人たちへ思いを馳せるのもひとつの旅。そんな瞬間も“一生モノの旅”のひとつではないでしょうか。

 

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モンマルトル墓
https://www.paris.fr/equipements/cimetiere-de-montmartre-5061

前原 利行

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前原 利行
この記事を書いた人

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201812/24

フランスの穴場スポット!著名人が眠るパリの3大墓地 その1 ペール・ラシェーズ墓地 [海外旅行 フランス]

公園の中のように広いペール・ラシェーズ墓地

公園の中のように広いペール・ラシェーズ墓地

海外の墓地を訪ねるのが好きです。すでに亡くなった偉人たちの墓の前に立つと、その人の業績を思い出すだけでなく、ふだんは忘れている「死」についても考えてしまいます。パリ市街東部にあるペール・ラシェーズ墓地は、モンマルトル墓地、モンパルナス墓地と並ぶパリの3大墓地のひとつ。面積は3つの中で最も広く、ここに眠る著名人の数も多いので、訪れる観光客も少なくありません。今回はここにある、私が影響を受けた人々のお墓を紹介しましょう。お墓参りが旅の目的という旅も、あってもいいのではないでしょうか。

27歳で生涯を終えたジム・モリソン

ドアーズのボーカル、ジム・モリソンの墓

ドアーズのボーカル、ジム・モリソンの墓

まずはロック好きな私としては、外せないのがドアーズのボーカリスト、ジム・モリソンの墓でした。墓石には本名のジェームズ・ダグラス・モリソンJames Douglas Morrisonで刻まれているので、お墓を探すときにはご注意ください。1943年生まれのモリソンは、1965年にロックバンド、ドアーズを結成。1967年に2枚目のシングル「ハートに火をつけて」が全米1位の大ヒット。以降、「ハロー・アイ・ラブ・ユー」といったヒット曲や、『まぼろしの世界』『太陽を待ちながら』といったアルバムを発表します。モリソンのカリスマ的なボーカルは、それまでのポピュラー音楽にはないものでした。しかし途中からモリソンのドラッグと大量の飲酒によるトラブルが問題になり、1970年にはライブ活動を停止。そして1971年7月3日、パリのアパートのバスタブの中でモリソンが死んでいるのを恋人が発見します。27歳の生涯でした。映画『地獄の黙示録』のオープニングに流れるドアーズの「ジ・エンド」で聴ける呪術的とも言えるモリソンのボーカルは、今でも私たちを別な世界に連れて行く力があります。

SF映画の父ジョルジュ・メリエス

映画監督ジョルジュ・メリエスの墓

映画監督ジョルジュ・メリエスの墓

映画好きの私にとっては、ジョルジュ・メリエスの墓に行かない訳にはいきません。メリエスは映画創成期においてさまざまな技術を開発した人物で、とくに特殊撮影では元祖と言っていいでしょう。ジュール・ヴェルヌやH.G.ウェルズのSFを翻案した1902年公開の『月世界旅行』は最初のSF映画と言われています。またメリエスは興行師としての一面もあり、劇場でイリュージョン(マジックショー)などを上演し、人気を博していました。しかし1910年代に入ると映画や興行の失敗が相次ぎ、破産。1920年代にはモンパルナス駅の売店で売り子をしていた時期もあります。1930年代には再評価を受けますが、貧困生活のまま1938年にガンにより亡くなります。マーティン・スコセッシ監督の2011年の名作『ヒューゴの不思議な発明』では、ベン・キングスレーがメリエスを演じていました。不遇の晩年を過ごしたメリエスですが、SF映画の父といっていいでしょう。

映画俳優兼歌手のイヴ・モンタン

イヴ・モンタンとシモーヌ・シニョレの墓

イヴ・モンタンとシモーヌ・シニョレの墓

フランスを代表する映画俳優で歌手でもあるイヴ・モンタンの墓もここにあります。モンタンは1944年にシャンソン歌手のエディット・ピアフに見出され、翌年映画デビュー。1946年の主演映画『夜の門』で歌った主題歌「枯葉」が大ヒットします。その後、『恐怖の報酬』(1953)、『グラン・プリ』(1966)、『ギャルソン!』(1983)など、フランス映画にはなくてはならない俳優になります。モンタンは娯楽作に出演する一方、1960年代後半から硬派な社会派映画にも数多く出演していました。モンタンの墓には、女優で1953年に結婚した奥様のシモーヌ・シニョレも一緒に眠っています。

シャンソンの名歌手エディット・ピアフ

エディット・ピアフの墓

エディット・ピアフの墓

「ばら色の人生(ラ・ヴィアン・ローズ)」や「愛の讃歌」で知られる、フランスが生んだ偉大なる歌手エディット・ピアフの名前は聞いたことがあるでしょう。1915年生まれのピアフは、身長142cmという小柄な体から「小さなスズメ」という愛称でも呼ばれていました。日本では「愛の讃歌」は越路吹雪や美輪明宏の歌で知っている人もいるでしょう。またマリオン・コティヤールがピアフを演じ、アカデミー主演女優賞を受賞した映画『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』で、ピアフを知った方もいると思います。“恋多き女”としても知られるほか、上記のイヴ・モンタン、ジルベール・ベコーといった歌手のデビューにも力を貸しました。ピアフは1963年10月10日に47歳で亡くなります。墓地での葬儀には4万人もの人々が集まったといいます。歌を聴いたことがない方は、ぜひお聴きください。

19世紀末文学の旗手オスカー・ワイルド

オスカー・ワイルドの墓

オスカー・ワイルドの墓

ペール・ラシェーズ墓地の中でも多くの観光客が訪れるのがオスカー・ワイルドの墓です。ワイルドは19世紀のイギリスの作家で、結婚もして子供もいましたが男性も愛し、放蕩生活を送った上、梅毒による脳髄膜炎で1900年にパリで客死しました。日本では子供向けの童話『幸福な王子』の作者として知られていますが、本来はドロドロとした作品が主です。代表作は、唯一の長編『ドリアン・グレイの肖像』でしょう。悪徳を重ねる美青年ドリアン・グレイには秘密がありました。彼がいつまで若いのは、絵の中の肖像画が代わりに歳をとっていたからです。その怪奇な題材から、この作品は何度も映画や舞台になっています。また戯曲『サロメ』も何度も舞台化されています。預言者ヨハネに愛を拒絶されたサロメが、王にヨハネの首を所望。願いが叶うと、その生首に口づけをするという話です。日本で初めて『サロメ』を翻訳したのは森鴎外でした。私はこのワイルドの戯曲を下敷きにしたオペラを見たことがあり、そこからワイルドを意識し始めました。

モダンダンスの元祖イサドラ・ダンカン

簡素なイサドラ・ダンカンの墓

簡素なイサドラ・ダンカンの墓

最後に、質素な墓を紹介しましょう。壁の中に埋め込まれた集合墓地の一画にあるイサドラ・ダンカンの墓です。ダンスに興味のない人は、彼女の名前は知らないかもしれません。ダンカンは20世紀初頭に人気を博した女性舞踊家です。古代ギリシャ風のチュニックを身にまとい、裸足で創作舞踊を踊ったことから「裸足のイサドラ」と呼ばれ、モダンダンスの創始者とも言われています。晩年は不遇で、1927年にニース近郊で車の車輪に首に巻いたスカーフが巻き込まれて亡くなりました。1968年には彼女の生涯がヴァネッサ・レッドグレーヴ主演で『裸足のイサドラ』として映画化され、話題を呼びました。激動の時代に慣習にとらわれることなく自由奔放に生きた彼女もまた、伝説の中の人物でしょう。

このペール・ラシェーズ墓地には、他にも画家のドラクロワ、ピサロ、モディリアーニ、コロー、スーラ、マリー・ローランサン、作曲家のビゼー、ショパン、ロッシーニ、作家のアポリネール、ドーデ、コレット、ラディゲ、詩人のラ・フォンティーヌ、女優のサラ・ベルナール、歌手のジルベール・ベコーなど、名だたる著名人が眠っています。墓地は700メートル四方あるので、お目当の墓がなかなか見つからないかもしれません。入り口の地図をよく見ていくといいでしょう(スマホで写真を撮るのもいいかも)。しかし時間をかけて探すのも、また“旅の時間”なのです。

 

大都会の中でも墓地は静かです。外の喧騒からほんの少し離れるだけで、静寂が漂う場所。ここは旅の浮ついた気分が一度リセットされ、クールダウンもできるところなのです。そんなひとときを過ごしたことも、あとから思い出すと“一生モノの旅”のひとつだったかと思うかもしれませんよ。墓地巡りの旅、おすすめです。

 

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ペール・ラシェーズ墓地(https://pere-lachaise.com/en/)

前原 利行

日々、自分の興味があるものを追いかけています。音楽、映画、アート、歴史、そしてまだ見ぬ世界の風景や文化…。心に刻まれた一生モノの経験が、自分の最大の財産でしょうか。これからも、まだ知らない出会いを探していきたいと思っています。

前原 利行
この記事を書いた人

この記事を書いた人前原 利行

201811/12

アートの街を満喫。芸術家と映画のロケ地 パリのモンマルトル散歩  [海外旅行 パリ]

丘上にそびえるサクレ・クール寺院は、モンマルトルのランドマークだ

丘上にそびえるサクレ・クール寺院は、モンマルトルのランドマークだ

「芸術の都パリ」。使い古された表現ですが、初めてパリに行った30年前、私にとってパリはまさしくアートの街でした。とりわけ映画と絵画は、当時の私にとって大きな存在で、観光名所というより、芸術家ゆかりの地を巡っていました。その後、パリには何度も行っていますが、今回は、まだ“何者”でもなかった20代の私が初めて行き、滞在したモンマルトルの街を紹介したいと思います。あの時の旅は、自分にとってはまさに“一生モノ”の旅でした。

 

芸術家たちが集まったモンマルトル

セーヌ右岸のパリ18区に、パリで一番高い丘、モンマルトルがあります。丘上のサクレ・クール寺院、似顔絵描きの画家が並ぶテルトル広場、キャバレーのムーラン・ルージュなど、ここはパリ有数の観光地です。もともとはパリとは別の村でしたが、19世紀に拡大するパリ市街に呑みこまれてしまいます。20世紀初頭には歓楽街が生まれ、キャバレーが軒を連ねました(当時のパリのキャバレーは、歌手や芸人、踊り子などがパフォーマンスをする舞台でもあった)。また、貧乏な芸術家たちも、安い家賃のモンマルトルに集まってきました

老舗映画館Studio 28は、今もミニシアターとして営業中

老舗映画館Studio 28は、今もミニシアターとして営業中

私の初パリもモンマルトル

私が初めてパリに行った30年前、しばらく滞在していた安ホテルもモンマルトルでした。メトロのアベス駅から徒歩5分。当時はまだまだ庶民の町といった風情が残っていました。泊まったホテルの名前は「ホテル・デザールHotel Des Arts」(芸術ホテルの意味)。物価も当時は安く、トイレ、シャワー共同で1泊4000円ぐらいだったかと思います。同じ宿には日本人画学生や近くの学校に通うバレリーナもおり、若い活気に満ちていました。イーゼルを抱えた宿泊客と階段ですれ違うだけでも、素敵な気分でしたね。このホテルは現在もありますが、リノベーションして中級ホテルになり、当時の風情はなくなってしまったことでしょう。

ホテル・デザールの目の前には、今も1928年にオープンしたという映画館「Studio 28」があります。これはジャン・コクトーが内装をデザインした映画館で、監督ブニュエルのシュールレアリズム作品『黄金時代』上映の時は、右翼が爆弾をスクリーンに投げつけたそうです。映画『アメリ』で、アメリが映画を見ているのもこの映画館です。

 

印象派の画家たちが描いた場所

ホテルの坂道を登った突き当たりに大きな風車が見えますが、ここはかつてダンスホールでした。ルノワールの名画『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』のほか、ゴッホ、ピカソ、ユトリロらもこの場所を描いた、名画の場所なのです。

逆に坂を下り、レピック通りを右に行くと、すぐにゴッホと弟のテオが住んでいたアパートがあります。ただし住居なので、一般には公開されていません。

映画『アメリ』の舞台になり有名になったが、昔から営業していた「カフェ・ドゥ・ムーラン」

映画『アメリ』の舞台になり有名になったが、昔から営業していた「カフェ・ドゥ・ムーラン」

『アメリ』のカフェもこの近く

そのレピック通りからメトロのブランシェ駅があるクリシー通りまでは坂を下って徒歩5分。私がよく通っていたその途中のカフェが、その後、映画に出てきた時はビックリしました。「カフェ・ドゥ・ムーランCafé des 2 Moulins」は映画『アメリ』で、アメリが働いていたカフェです。見慣れていた場所にスクリーンで再会した時は、驚きと懐かしさで胸がいっぱいになりました。

カフェ・ドゥ・ムーランの前の道を下り、クリシー通りに出たところにあるのが、有名なキャバレー「ムーラン・ルージュ」です。映画もありましたが、あれはセット。ここは画家ロートレックの絵で有名ですね。今も古きスタイルを伝えるキャバレーとして健在です。

「洗濯船」があったエミール・グードー広場。訪れたら映画のロケが行われていた

「洗濯船」があったエミール・グードー広場。訪れたら映画のロケが行われていた

若き芸術家たちが暮らした場所

モンマルトルの丘上へ行く途中、静かなエミール・グードー広場に寄り道してみましょう。ここには20世紀初頭に「洗濯船」と呼ばれる集合アトリエ兼住宅があり、ピカソ、ブラック、モディリアーニ、ゴーギャンなど、のちに大成する画家たちが暮らしていました。ピカソの代表作『アビニョンの娘たち』(1907)はここで描かれたため、キュビズムの誕生の地としても知られています。「洗濯船」は残念ながら1970年に焼失してしまい、今は小さなショーウインドーに当時の面影を伝える資料が飾ってあるだけなのが残念です。

サクレ・クール寺院の脇には、パリに唯一残るというブドウ畑も残っています。19世紀初頭までは丘の斜面の3/4はブドウ畑でした。この畑の向かいに、かつてのキャバレー「ラパン・アジル」があります。前述の「洗濯船」に住むピカソなどの画家たちが通っていました。小さな店ですが、今もシャンソンを聴かせる店として営業中です。

 

その後、行くたびにモンマルトルの観光地化は進み、街並みも少しずつ変わっていきました。それでも、東京などに比べれば、変わらない部分の方が多いでしょう。この記事を書きながら、30年前にあの安ホテルに集っていた画家の卵や若いバレリーナたちはどうなったのだろうと、久しぶりに思い出しました。芸術作品を見るのも大切ですが、それを生んだ場所の空気に浸るのも、私にとっては重要です。そんなことも、また“一生モノ”の旅なのかもしれません。

 

[ DATA ]

スタジオ28( www.cinema-studio28.fr/ )
カフェ・ドゥ・ムーラン( cafedesdeuxmoulins.fr/ja )
ムーラン・ルージュ( www.moulinrouge.fr/ )
ラパン・アジル( au-lapin-agile.com/ )

 

前原 利行

日々、自分の興味があるものを追いかけています。音楽、映画、アート、歴史、そしてまだ見ぬ世界の風景や文化…。心に刻まれた一生モノの経験が、自分の最大の財産でしょうか。これからも、まだ知らない出会いを探していきたいと思っています。

前原 利行
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この記事を書いた人前原 利行

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