201904/04

おとぎの国のようなアートな村 台湾の原住民が暮らす秘境・霧台へ

バス停で降りると、村はすでにルカイ族のアートであふれています

日本から近くておいしいものがいっぱいで、気軽に訪れることのできる国、台湾。けれども、そんな“国内旅行感覚”で行けそうな台湾でも、一生忘れられないようなドラマは起こります。私にとって台湾が一生モノの旅の舞台となったきっかけは、台湾原住民の住む山奥の村に行こうとした2013年から始まります。友人が「霧台(むだい/ウータイ)」へ旅した写真を見せてくれたときからです。

台湾に今も暮らす「原住民」を知っていますか?

台湾の「原住民」とは、中国本土から漢民族が入ってくる以前からここに生活していた人々のことを指します。台湾では「もともとここにいた」ことを表す、誇り高い呼称なのです。南部、とくに山地には原住民が多く暮らしています。この原住民のうちのひとつ「ルカイ族」の多くは、霧台に住んでいます。写真で見た霧台は、まるでおとぎの国のようでした。教会や学校、ガードレールや塀、個人の家にいたるまで、所狭しと装飾を施すのです。それらは子供のように自由で伸びやか、それでいてルカイ族の伝統をきっちり守った、他のどこにも見ることのできないアートでした。私は、ルカイ族の芸術性にひとめ惚れしてしまったのです!

心がのびのびしてくる、おおらかなアート

無謀にも、女性のひとり旅でアタックしたものの……

霧台は山奥の秘境です。しかも2013年当時には、崖崩れのために路線バスが長期運休でした。そこで屏東から1時間ほど山に入った三地門まで行き、ここでヒッチハイクを試みましたが、現地の人々は「女性ひとりでは危ない」と口をそろえて引き止めます。やがて、誰かが日本語を話せるおばあさんを連れてきてくれました。台湾では、第二次世界大戦以前の日本統治時代に日本語教育を行っていたので、今でも日本語を話せるお年寄りがいます。そのおばあさんからも「危ないから」と(日本語で!)言われ、私はその時とうとう霧台行きを断念したのでした。

霧台への道のり。道路はきちんと修理されてきれいに

子供が先に目的達成。うれしいやら悔しいやら

その後、2015年には道路の修復が済み、ついにバスがまた通るようになりました。「いつかまた霧台にチャレンジしたいな……」そう思っていた矢先、大学生の娘が私の霧台行き断念の話を聞いておもしろがり、ひとりで行ってきたのです! 海外にひとりで行くのが初めての娘でしたが、台湾の人たちの熱い親切に助けられて、難なくルカイ族の村をまわれたようです。その土産話の中に、「日本語を話せるおじいさんのいる家に上がった」というものがありました。あのおばあさんが私の頭をよぎりました。三地門よりさらにずっと山奥の霧台にも、まだ日本語を話す年配の人が生きているのか……。

霧の多い地域だが、晴れると写真映えもこんなにばっちり!

私が感慨にふけっていると、話を聞いた息子が「オレも行くぞー!」と、娘とルカイのご家族が写った写真を大きくプリントして、さっさと霧台へ行ってきたのです。名前も住所も知らないのに! けれども、息子によれば、とにかく写真を現地の人たちに見せて歩いていたら、すんなり見つかったそうです。さすが山奥の村。そして「この子の兄です」と記念写真をお土産に渡してきたとか。ふたりの子供のフットワークの軽さが痛快でうらやましくもあり、こうなったら私も「今度こそ」と決心しました。

憧れの霧台に到着! ひととおり観光してから、いよいよ人探しへ

路線バスが復活した今では、霧台はそこまでアクセスが困難な場所ではなくなりました。しかし台湾の都市部と有名観光地だけしか行かない多くの日本人旅行者にとっては、心理的に遠いのですよね。きちんと計画しておけば半日で行ってこられますよ。何年も憧れ続けた霧台は、写真で見たとおり、おとぎの国のような装飾に囲まれた村でした。私は夢中で歩き回り、写真を撮り、イノシシ肉や愛玉ゼリーなど名物のグルメを食べ歩きました。

ルカイ文物館の建物にも装飾がぎっしり

村の人はその大多数がルカイ族です。これも村の名産品であるコーヒーの出店で、娘の撮ったおじいさんの家族の写真を見せてみました。すると「うーん、この家族は、坂を下ったところにある家じゃないかしら。」と教えてくれました。実は言葉は一言も通じないのですが、一生懸命聞けば、なんとなく理解できるものです。言われた通りに坂道を下りましたが、メインの観光ルートを外れると、いきなり人の姿がなくなってしまいます。心細くなってきたころ、土地の人らしい男性に会ったので写真を見せつつ困っているジェスチャーをすると、「この先まっすぐのところにある家だよ」というジェスチャーで教えてくれました。

ついに会うことができたルカイ族のおじいさん。「私は84歳だから遠出はしないよ」

写真1枚を頼りに、本当に探し当てることができたのです

しばらく歩くと、あっ、写真と同じ家がありました! とうとう、やってきました。しかし勢いでここまで来たものの、来られる側からしたらなんと思うでしょうか? 数ヶ月おきに日本人の家族がひとりずつやってきては、名前も告げず去っていくのですから。我に返ってもじもじしているうちに、中から奥さんが出てきました。どうせ言葉はぜんぜん通じないので、もごもごと自己紹介しながらすばやく娘が撮ったご家族の写真を取り出します。奥さんは我が意を得たりという顔になり、日本語を話せるおじいさんを連れてきてくれました。

現れたおじいさんは、もしかしたら、娘と息子のことをすでに忘れていたのかもしれません。それとも、次々やってきた日本人親子をいぶかしがるには、すでに歳をとりすぎているのかもしれません。私が誰なのかにかまうこともなく、彼は完璧な日本語で穏やかに話しかけてくれました。日本人と変わらない容貌もあいまって、いつしか最初の緊張と高揚感は消え、代わりにここが日本のどこかの田舎のような気分に……。ぽかぽかした陽射しの中、おじいさんと並んで山あいの景色を眺めたのは、忘れることのできないひとときになりました。

 

かわいい子供たち。台湾原住民は目鼻立ちがはっきりしているのが特徴

実現するまでに何年もかかった、台湾の中の秘境行き。山奥で聞いた日本語の響きを思い出すだけで、胸がいっぱいになります。流れていく歴史のひとつの地点に、確かに自分が立っていた、と実感しました。年若い子供たちにとっては、さらに貴重な体験だったはずです。また私にとっては、自分より先にさっさと憧れの地に行ってきた子供たちの成長を見て、なんとも感慨深い気持ちになったのです。“一生モノの旅”は、何も遠い国や地域へ行くことだけではありません。場合によっては、そんな日本からすぐ近くの国でも得ることができるのです。

 

 

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霧台へは、屏東からのアクセスが一般的。屏東駅北口を出て「屏東客運バスターミナル」から出るバスに乗る。
時刻は、屏東〜霧台7:45、9:30、14:30 霧台〜屏東11:30、16:30(2018年現在)。
車内で「入山申請書」に氏名、住所、電話番号、旅券番号などを記入する。パスポートを持参する方がよい。

 

 

神谷

「長い旅、遠い国への旅、地を這う旅」こそが至上の旅だと思い込んでいた若いころ。今は旅が短くても、近くても、安楽でも、その中に一生忘れられないきらめきを見つけることが上手になりました。“旅とふたり連れの人生”の旅をしています。でもいつかまた、地を這う旅に戻ってみたい気持ちも……。行きたいところはいつでもいっぱいです!

神谷
この記事を書いた人

この記事を書いた人神谷

201904/01

“一生モノ”となる新婚旅行はどこ? 編集部が選んだハネムーン先5選

グラナダのアルハンブラ宮殿と市街。パラドールは宮殿の敷地内にある(スペイン)

そもそもどこに行くにせよ、ハネムーン自体が“一生モノの旅”であることにはまちがいありません。行く場所は本来それほど重要ではないのです。しかし今回はあえて「こんな旅もできます」という提案をしてみます。実はここで紹介する5つの旅はすべて、実際に編集部の知り合いが行ったハネムーンの中から評判が良かったものから選びました。こんな新婚旅行先もあると、あなたのハネムーンの参考にしてみてはいかがですか?

スペインの宮殿ホテルに泊まる。異国情緒たっぷりのアンダルシア(スペイン)

マドリッドやバルセロナなどの大都市も楽しいスペインですが、ハネムーナーへのおすすめは、落ち着いた雰囲気が漂う地方都市です。とりわけスペイン南部のアンダルシア地方は、かつてのアラブ文化の名残りもあり、雰囲気抜群。私たちがスペインと聞いてイメージするフラメンコと闘牛も、実はアンダルシアが発祥の地なのです。町に着いてしまえば、その中心部はほぼ徒歩圏なので移動の心配もありません。正味一週間ほどあれば、アンダルシアの代表都市を回ることもできるでしょう。

さて、せっかくのハネムーン。ならば泊まってみたいのが、宮殿や古城、修道院などの歴史的建造物を利用した「パラドール」です。アンダルシア人気の都市グラナダのパラドールは、アルハンブラ宮殿の敷地内にあります。なのでそこへの宿泊は、まさに一生の思い出になるでしょう。ほかにもヌエボ橋の眺望で有名なロンダにあるパラドールは、橋のすぐ脇にあり宿泊料金も手頃でおすすめです。

 

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スペイン
Parador de Granada

 

 

エーゲ海のミコノス島の丘上に並ぶ風車(ギリシャ)

青い海と白い壁の町。エーゲ海の島々をフェリーで回る(ギリシャ)

エーゲ海には多くの島々があり、4〜9月のシーズン中はフェリーが頻繁に行き来しています。この半年間は雨も少なく、エーゲ海のすばらしい「青」が堪能できるのでハネムーンに検討してみてはいかがでしょうか。ギリシャの島々の滞在は何も豪華ホテルに泊まる必要はなく、ハネムーンでも青い空と海が見えるテラス付きの客室でのんびりと過すだけで十分なのです。

断崖絶壁の上に町があるサントリーニ島では、白壁の町と青い海のコントラストが堪能できます。とりわけ崖上から見るエーゲ海のサンセットはふたりの一生の思い出になるでしょう。作家の村上春樹氏が滞在し、『ノルウェイの森』を執筆していたのがミコノス島です。家々の壁が白一色で統一されたミコノスタウンの散策は心地よく、湾沿いのレストランで丘上の風車を見ながらのんびりと食事をするのもいいでしょう。そのほかにも、迷宮伝説が残るクレタ島、騎士団領だったロドス島もハネムーナーにおすすめの島です。

 

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ギリシャ政府観光局http://www.visitgreece.gr/

 

 

ジャイプルにある宮殿ホテルのランバーグパレス。ライトアップされた庭(インド)

ラジャスタンの宮殿ホテルでマハラジャの栄華を体験する(インド)

「インドはハネムーナーにはハードルが高い」と考えている方は多いでしょう。しかしインドは世界的な大富豪も数多く輩出している国。豪華なホテルやレストランもあり、さまざまなタイプの旅行ができます。そこで編集部からのおすすめは、宮殿ホテルでの滞在です。インドには、独立まで「藩王」とも呼ばれるマハラジャが統治している地域がありました。そのマハラジャの宮殿が現在はホテルになっているのです。

宮殿ホテルが多いのはインド北西部のラジャスタン州です。州都ジャイプルにあるランバーグパレスはマハラジャの邸宅を改装したホテルで、室内の調度品からレストランや庭園といった施設にいたるまで、すべてがゴージャス。ジョードプルのウメイドバワンパレスは現在も建物の一部に藩王の一族が住んでおり、ここも建築や内装は一級品です。ハネムーンにぴったりなのが、湖上に浮かぶ島がそのまま宮殿ホテルになっているウダイプルのレイクパレスでしょう。こうした宮殿ホテルに泊まり、ふたりでマハラジャ、マハラニ気分を味わってみてはいかがでしょうか? きっと忘れられない思い出になりますよ。

 

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ランバーグパレス
https://www.tajhotels.com/en-in/taj/rambagh-palace-jaipur/

ウメイドバワンパレス
https://www.tajhotels.com/en-in/taj/umaid-bhawan-palace-jodhpur/

レイクパレス
https://www.tajhotels.com/en-in/taj/taj-lake-palace-udaipur/

 

 

こんな雄大なグランドキャニオンも、ラスベガスから足を延ばして行ける

ラスベガスではショッピングとエンタメ、グランドサークルの大自然でリフレッシュ(アメリカ)

どこに行くかに悩みがちなハネムーン。大自然を見ながら心も体もリフレッシュしたいと思う人もいれば、ショッピングやエンタメを楽しみたい人もいるでしょう。そこで編集部がおすすめするプランは、ラスベガスを基点にして「グランドサークル」と呼ばれるアメリカ西部の国立公園エリアを周遊する旅です。

ラスベガスはカジノだけではありません。泊まってみたくなるテーマホテルの数々。シルク・ド・ソレイユをはじめとするエンタメ。そして高級ブランドが入る大型モールから郊外のアウトレットモールまで、ショッピングも大満足。現在はカップルや家族も楽しめる街なのです。

このラスベガスを基点としてツアーやレンタカーで行けるのが、ダイナミックな大自然の景観を満喫できる「グランドサークル」エリアです。ここには日本では到底見ることができないスケールの峡谷グランドキャニオン、波打つような岩の造形のアンテロープ・キャニオン、そしてパワースポットとしても名高いセドナなどがあります。都会のラスベガスと組み合わせると旅に変化がつき、すてきなハネムーンになるでしょう。

 

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ラスベガス政府観光局
https://www.visitlasvegas.com/ja/

グランドサークル(ユタ州観光局)
https://utah.com/itinerary/grand-circle-tour

グランドキャニオン国立公園
https://www.nps.gov/grca/index.htm

 

ベネチアのグランド・カナル(大運河)。ここから多くの小さな運河が枝分かれしている(イタリア)

水の都ベネチアで、ロマンチックな時間を過ごす(イタリア)

車が通れない細い路地を歩いていると突然、広場や運河に架かる橋に出る。目を落とすと、人を乗せたゴンドラが運河を行き交う…。そんなロマンチックな風景が目の前に広がるのがベネチアです。ここは千年にもわたるベネチア共和国の都として繁栄した「水の都」。歴史的な建物から一級の芸術品まで満喫できるこの都市は、ハネムーナーに人気の旅先です。

ベネチアの町歩きは、歴史を感じさせるカフェが並ぶサン・マルコ広場から始まります。広場正面にあるサン・マルコ寺院は、11世紀に建てられたビザンチン建築の傑作。他にも総督が住んでいたドゥカーレ宮殿、リアルト橋、ベネチア派絵画を集めた美術館など見どころは多いですが、やはりベネチアではロマンチックな街の散策が一番印象に残るでしょう。

旅のベストシーズンは春から秋にかけての4〜9月。ただし7〜8月は非常に混み合うのでできれば避けたほうがいいでしょう。連泊するなら、世界遺産のドロミテ渓谷への日帰りツアーもおすすめです。

 

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イタリア政府観光局
http://visitaly.jp/

ベネチア観光局
http://www.venice-tourism.com/en

 

 

一生の思い出となるハネムーン。できれば失敗したくないですが、あまり思いが強すぎると旅先で疲れてしまいます。ただでさえ気が張ってしまう海外。欲張りすぎず、ゆるい日程で回るのが成功の秘訣です。また、行き先選びで大事なのは旅の季節。写真をいっぱい撮るからにはベストシーズンを狙いましょうね。

 

 

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一生モノ 関連リンク
グラナダhttps://issyoumono.com/products/515.html
セビーリャhttps://issyoumono.com/products/526.html
スペイン観光局 公式サイトhttps://www.spain.info/ja/
パラドール公式サイトhttps://www.parador.es/en
スペインのパラドールのサイトだが、日本のホテル予約サイトからも予約ができる

 

 

前原 利行

日々、自分の興味があるものを追いかけています。音楽、映画、アート、歴史、そしてまだ見ぬ世界の風景や文化…。心に刻まれた一生モノの経験が、自分の最大の財産でしょうか。これからも、まだ知らない出会いを探していきたいと思っています。

前原 利行
この記事を書いた人

この記事を書いた人前原 利行

201903/28

神秘的な古代の巨大神像 トルコの世界遺産「ネムルート山」

この遺跡は1987年に世界遺産に登録された

世界を旅していると、ときどき“忘れられない風景”に出会うことがあります。そしてそれは見る時間帯により、印象がさらに強くなることがあります。私にとってトルコ東部のネムルート山頂にある遺跡がそのひとつでした。私はこの遺跡を3回訪れましたが、それが私の特別な景色になったのは、陽の光に染まる日の出と日没の時間帯に行ったからかもしれません。

トルコ東部の山頂に残る古代の遺跡

トルコの首都アンカラから東に約600km。町から遠く晴れた山地にある標高2150mのネムルート山の頂上に、不思議な遺跡があります。山頂の東西にある頭部が転げ落ちた神像群です。ここは紀元前にこの地を支配していたコンマゲネ王国の墳墓と神殿跡。アレクサンドロス大王の死後、東方には多くのギリシャ系の国家が生まれましたが、そのうちのひとつセレウコス朝シリアから前162年に独立したのが、コンマゲネ王国でした。この小さな王国はローマとパルティアという二大強国に挟まれながらも生き延びていましたが、とうとう紀元後72年にローマの属州に編入されました。そしてそれ以来、この山頂の墳墓は打ち捨てられてしまったのです。

「神々と手を握るアンティオコス1世」の浮き彫り。ただしこの石板は、現在は博物館に移されている

ネムルート山に向かう2つのルート。どちらがおすすめ?

人里離れたこの遺跡に行くのには南北2つのルートがありますが、共に山頂までの公共交通機関はなく、現地発ツアーで行くことになります。近いのは南側から行くルートで、空港もある大きな町アドゥヤマン、あるいは遺跡に近い小さな町キャフタからツアーが出ています。この南側ルートのメリットは半日で往復できることでしょう。日没ツアーならアドゥヤマン13時発、キャフタなら16時発です。ただし私はこれに参加したことがありますが、日帰りなので慌ただしいものでした。なので私がおすすめするのは、以下の北側からのルートです。

これは人口約40万人の東部の中都市マラティヤからの1泊2日のツアーです。時間はかかりますが、山にあるホテルに一泊するので日の入りと日の出の両方がゆっくりと見られます。ツアーバス(といってもミニバンですが)は昼の12時にマラティヤを出発し、4時頃に山頂から約2km離れた簡素なホテルに到着します。私はこのツアーに2回参加しましたが、地元トルコの旅行者は南ルートのほうへ行くようで、参加者はドイツ、フランスなどヨーロッパ各国からの旅行者たちが多かったですね。参加者はホテルでいったん荷物を降ろし、すぐに車で山頂の駐車場へと向かいました。

山の周辺にある、ローマ時代に建てられたジェンデレ橋の石柱

山頂にある墳墓と2つの神殿跡

ネムルート山頂は一見ふつうの山頂に見えますが、実は小石を高さ49mの円錐状に積み上げた人工物です。これがコンマゲネ王アンティオコス1世の墳墓で、小石の山の中に王の玄室があると推測されています。ただし、掘ると小石が次から次へと崩れて山頂自体が崩壊するので、発掘は未だにされていません。墳墓の東西には同じ形式の神殿が配置されています。かつては建物もあったのかもしれませんが、今では残っているのはそれぞれ5体ずつの神像とワシとライオンの像です。

階段を上っていくと、山頂を一周する歩道に出ました。この道は一周約5分。周囲には高い山がないので、眼下にパノラマが広がります。町らしい町はまったく見えません。ここから見える大きな湖は、アタチュルク・ダムを造るときにできた人造湖です。

アポロン神の頭部。後ろには座像部分が見える

夕陽に赤く染まる古代の神像たち

太陽は次第に傾き、山頂をオレンジ色に染めていきました。東側はすっかり日陰になってしまい、人々は日の当たる西側に集まっていきます。神像は横一列の座像ですが、その頭部はすべて下の地面に落ち、西を向いていました。地震で落ちたとも後世の人々が落としたともいわれていますが、それはまるで最初からそこにあったかのように、実に風景に合っていました。

5体の神像は、アンティオコス1世(死後、神格化されて神になっている)、ゼウス、アポロン、ヘラクレス、テュケ女神(コンマゲネ王国の守護神)で、ほかにワシとライオンの像があります。観光客たちは静かに神像の頭部の間を歩き、日の入りを待ちました。その日は晴れており、太陽は見事に遺跡を赤く染めていきました。石像の色はもともと白いので、オレンジ色に染まると昼間の光の中で見るのとはかなり印象が異なります。夕暮れのわずかな間、神像はかつての威厳を取り戻したように見えました。その日、このすばらしい姿を眺める特権を得られたのは、頂上にいる十数人の人々だけでした。

アンティオコス1世の像の頭部

2000年間、孤独に夜明けを待っていた神像

日没後、参加者たちはホテルに戻り夕食タイムになります。私は寝る前に少しだけホテルの外に出てみました。空は満天の星が輝いていましたが、10月の山の夜はふるえるほど寒いもの。私はすぐに暖房の効いた部屋に戻り、早々と眠りにつきました。

翌朝、まだ暗いうちにツアー客たちはミニバンに乗り込み、再び頂上に向かいました。寒さに震えながら東の神殿前で待ちます。夜明けを待った方ならわかると思いますが、明るくなってから実際に太陽が顔を出すまでは思っているよりも長いんですよね。やがて空の色は群青色から紫色に変わり、さらにそれが薄くなって東の神像たちが向く方向にようやく太陽が顔を出しました。

この神像たちはこうして2000年以上、毎日ここで太陽が顔を出すのを待っているのでしょう。今では夏の間は観光客が訪れますが、それまでの長い間、神像たちは訪れる人もいない孤独の日々を過ごしていたのでしょうか。太陽を見つめながら私は、そんなことを想像していました。

 

 

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ユネスコ世界遺産(英語)https://whc.unesco.org/en/list/448
(動画)https://www.youtube.com/watch?v=GZwQi7mZAdo
ネムルート山国立公園(英語)http://nationalparksofturkey.com/mount-nemrut-national-park/

 

前原 利行

日々、自分の興味があるものを追いかけています。音楽、映画、アート、歴史、そしてまだ見ぬ世界の風景や文化…。心に刻まれた一生モノの経験が、自分の最大の財産でしょうか。これからも、まだ知らない出会いを探していきたいと思っています。

前原 利行
この記事を書いた人

この記事を書いた人前原 利行

201903/25

「北のパリ」ワルシャワ 破壊から甦った美しい旧市街

風船につかまって飛んでいけそう?

「ワルシャワ歴史地区(ワルシャワ旧市街のこと)」が自分にとって一生モノの旅先になろうとは、行ってみるまで予想もしていませんでした。実際に訪れ、世界遺産である旧市街を歩いていくうちに、言いようのない感動が心に満ちてきたのです。ワルシャワ歴史地区は、それまで歩いたどの街並みとも違う美しさを持っていました。

ベストシーズンの夏のポーランド

私がポーランドを訪れたのは、美しい夏の日でした。首都ワルシャワには、短い夏を楽しむ市民や旅行者がそぞろ歩いていました。騎士のコスチュームを着込んだ人が記念写真の呼び込みをし、シャボン玉がどこからともなく飛んできて、アコーディオンの音色が広場に流れます。風船売りはカラフルな風船を差し出し、子供の手を離れた風船は、群れ立つ鳩と青空で交差します。心浮き立つような、典型的な夏のヨーロッパの光景がそこここに見られました。

美しい街並みは、ほとんど戦後に作られた

現在の美しい都からは想像しにくい、不幸な歴史

誰もが微笑みながら観光するその街角が、ほんの数十年前まではおびただしい血の流された場所だったなんて、信じがたいほどです。ここワルシャワの旧市街は、第二次世界大戦の戦禍により荒れ果てていたのです。ポーランドは四方を他国に囲まれているため、近世から度重なる侵攻を受けてきました。18世紀の「ポーランド分割」では国土が消滅する危機にも見舞われました。そして、第二次世界大戦時にはナチス・ドイツによる徹底的な破壊により、ワルシャワ市街の80%が瓦礫と化してしまったのです。

シックな色合いも、実は新しい建物

綱渡りの復興計画。立役者となったのは……

自分の街が文字どおり根こそぎ奪われてしまうことは、生きる力を奪われることに他なりません。現在の生活のみならず、それまでの思い出も、当たり前に続いていくはずだったこれからの平和な暮らしも、すべてが失われてしまったのですから。けれども、戦後のポーランド人たちはワルシャワ旧市街を驚くべき努力の末に復活させたのです。それも、“壁のひび割れひとつに至るまで”という、微に入り細を穿つ復元作業を経て。なぜ、そんなことができたのでしょうか?

レンガの下の方についている筋から上が、復元された部分

街の復元にあたり、キーパーソンとなった人が二人いました。ひとりは、イタリア人風景画家のベルナルド・ベッロット。きわめて緻密な画風を持っていた彼は、多数のワルシャワの風景画を残していたのです。これが復元事業に大変役に立ったということです。もう一人は、ワルシャワ工科大学建築学部の教授、ヤン・ザフファトビッチです。ザフファトビッチ教授は戦間期から学生たちとともに街のスケッチに取り組んでいたのです。第二次世界大戦が始まってからも、身の危険を冒してひそかにスケッチが続けられました。3万5000枚におよぶスケッチは、教会の棺などに隠されて保管されていました。

シャボン玉売りに足を止める旅行者たち

紙と鉛筆が彼らの武器となりました

ザフファトビッチ教授は、ワルシャワが免れようもなく破壊されるであろうことを予見していたのです。「北のパリ」とも称えられた美しい故郷が暴力によって踏みにじられるのなら、自分たちの手で、自分たちのやり方で、再び取り戻してみせる。「意図と目的をもって破壊されたものは、意図と目的をもって復興する」という彼の言葉は、まさにその信念をひとことで表しています。

バルバカン(馬てい形の砦)の内側を通る観光馬車

彼の情熱に市民も立ち上がります。建築学部の学生や大工などを中心に、一般の市民も無償で復元工事に参加しました。荒れ果てた首都を何の思い出もない別の風景に作り直すのではなく、可能な限り厳密にもとに戻すこと。それは、単に第二次世界大戦からの復興という意味合いだけではなかったはずです。何世紀もの長きにわたって侵略を受けてきた悲しみの歴史を、もう決して繰り返さないという意思表示だったのではないでしょうか。

着ぐるみは世界共通の人気者

古いようで新しく、新しいのに歴史ある風景

ワルシャワ旧市街の建築物には、たしかに本当に古い建築が持っている重厚さが足りません。しかし、ワルシャワの歴史を知ってから歩いてみると、この場所の真価がわかってきます。建築という目に見える物体ではなく、それを自分たちの手で取り戻した「市民の意志」、これこそが真に価値あるものなのです。

 

ワルシャワ旧市街を歩いていると、東日本大震災をはじめとする日本の天災のことがしきりと思い出されました。戦争に限らず、津波や地震などによっても、人は暮らしの場を失います。けれども、もしもそこで“壁のひび割れひとつに至るまで”自分の住む家や街が再建されたら、どうでしょう? その信念こそ、人が再びこの地で生きていこうとするための力となるにちがいありません。

ワルシャワの街並みを歩くことは、故郷を引き裂かれた苦しみ、不屈の精神、そして自由で平和な暮らしへの希求という、ポーランドの人々の心を旅することに他なりません。街そのものに刻み付けられた人間の強い意志を感じたときが、ワルシャワ旧市街を“一生モノの旅”にしてくれる瞬間なのです。

 

神谷

「長い旅、遠い国への旅、地を這う旅」こそが至上の旅だと思い込んでいた若いころ。今は旅が短くても、近くても、安楽でも、その中に一生忘れられないきらめきを見つけることが上手になりました。“旅とふたり連れの人生”の旅をしています。でもいつかまた、地を這う旅に戻ってみたい気持ちも……。行きたいところはいつでもいっぱいです!

神谷
この記事を書いた人

この記事を書いた人神谷

201903/21

家々が山肌を覆いつくす圧巻の光景 チベット仏教の聖地「ラルンガル僧院」

山肌にビシーッとへばりついたマッチ箱のような小さな赤い家。数えきれないほどある家々が山肌を覆いつくしています。標高3880メートルの高原の中に突如現れるこの不思議な山には、「ラルン・ガル・ゴンパ」というチベット仏教の寺院があります。中国語では「喇栄五明佛学院」と呼ばれ、チベット世界が好きな旅行者なら一度は行ってみたい憧れの地です。私も2004年の四川留学中に初めて行きました。当時、喇栄五明佛学院がある四川省甘孜チベット族自治州色達までの道は悪く、寒い季節だったので行くのが本当に大変でした。「一生モノ」の旅だったはずなのですが、どうしてももう一度見たくなり、その9年後、再び色達に向けて旅立ったのです

開放と非開放を繰り返す喇栄五明佛学院

喇栄五明佛学院は、2001年には8000人以上の僧と尼僧がいたと言われる巨大寺院です。社会不安から漢民族の信者も増え続けています。宗教の取り締まりが厳しい中国なので、喇栄五明佛学院に目をつけていないはずがなく、開放と非開放を繰り返しています。2004年は、外国人旅行者が入れるかどうか微妙な時期でしたが、2回目の2013年は、いわばブームの年でした。この時、四川省成都のユースホステルに泊っている旅行者の多くが、この喇栄五明佛学院を目指していました。

2004年の喇栄五明佛学院。2013年と比べると建設中に見える

喇栄五明佛学院の歴史は意外と浅く、1980年代前半に建設された

2013年の喇栄五明佛学院ブームの年、再び色達へ

喇栄五明佛学院に行く人が一気に増えていたのは、ネットであの不思議な風景を見た人が多かったことや、中国当局が観光地化して宗教的意味合いを薄めようとしていたことが理由に考えられます。また、色達での道路事情もものすごく良くなっていました。2000年代前半は成都から1泊2日かかりましたが、2013年になると、約13時間で行けるようになりました。ただ、いきなり色達に行くのは、高地が続きすぎて、高山病にかかってしまう可能性大。私は、成都とセルタの間にあるマルカムで1泊し、高所順応してから行くことにしました。2013年12月、セルタを目指して成都を出発!

喇栄五明佛学院に向かう道の入り口で見られる仏画

マルカムを朝7時20分に出発したバスは、午後2時30分、喇栄五明佛学院に近い三叉路に着きました。バスの終点は、約20キロ先の色達県の中心部。ここまで行けば、ユースホステルやホテルがありますが、時間を節約したい私は、三叉路にある安宿に泊まることにしました。

10年ぶりの喇栄五明佛学院は変わっていたか?

喇栄五明佛学院は、セルタ県城に続く道路沿いから2、3キロ奥まったところにあります。途中まで乗合バンに乗り、駐車場で降りた後は、れんが色の袈裟を着たお坊さんたちと一緒に荒涼とした山間部の道を歩きます。赤い家で覆われたあの不思議な山が見えてきました。まさに「おおっ、やっとたどり着いた!」と言う感じ。あっと言う間に喇栄五明佛学院に到着。午後の読経の時間が始まっているのか、本堂の入口にはお坊さんが脱いだブーツの山。中に入りにくいので見学は後にして、まずは山に登ります。喇栄五明佛学院の裏が山になっており、適当な道を見つけたら家と家の間を登って行きます。

この細い道を登っていく。薄い板張りの家は本当に寒そうだ

マッチ箱のような赤い家は僧坊です。近くで見ると、各家はまさに掘っ建て小屋。窓から仏画が描かれたベッドや棚、飼っている猫が見えました。僧坊の前の細い道を縫うように登って行くと、標高が高いので青空に近づいていく感じです。てっぺんに到着! チベット族の巡礼者たちが金色屋根のお堂の周囲をぐるぐる回り、お堂の前では小さな子供まで五体投地をしています。赤い山のてっぺんからすり鉢状に広がる谷を見降ろすと、そこは赤い僧坊に覆われた赤い谷でした。こんな不思議な風景は中国のどこに行っても見られません。しかも10年前より格段にパワーアップ。まさに「一生モノ」の風景を見られたことに感動です!

家族総出で巡礼に来ているチベット人も多い

てっぺんから見た喇栄五明佛学院

 

私が行った翌月の2014年1月、喇栄五明佛学院で火災が起きました。その後、2016年7月から中国当局による大規模な破壊が始まったと言われ、外国人も中国人も行けなくなってしまいました。2013年の2度目の旅が、本当に「一生モノ」の旅になってしまったのです。しかしいつかまた、ここが開放される日が来るかもしれません。その時、私はまた行ってしまうのか、今はまだ想像もつきません。

 

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喇栄五明佛学院への行き方
四川省成都の茶店子バスターミナルからセルタ行きのバスに乗り、終点下車。セルタ県中心部より喇栄佛学院行きの乗合バスあり。

 

浜井 幸子

古い街、面白い形の塔、粉もの料理など、何かワクワクするものを求めて旅をしています。最近は、中国大陸を夜行列車で移動することも少なくなりましたが、早朝、目的地の駅に着いた時の感じが好きです。まぶしい光の中、駅から一歩踏み出す時のあの緊張と期待が入り混じった気持ちを大切にしたいと思っています。

浜井 幸子
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この記事を書いた人浜井 幸子

201903/18

エーゲ海で過ごす優雅なバカンス 青く澄んだ海と白壁の家々

ポストカードでもおなじみの、白壁のパラポルティアニ教会

ギリシャというと真っ先に浮かぶのは何でしょう。歴史好きの私は別にして、多くの人は白壁の家々が並ぶエーゲ海の島を連想するのではないでしょうか。深い青色をしたエーゲ海は、世界でも有数の美しい海です。そんなエーゲ海の中でも一、二の人気を競う島がミコノス島です。白壁の町、入り組んだ路地、丘の上に立つ風車、夜になるとにぎわうカフェやレストラン。たぶん我々が思い描く“エーゲ海の島”がミコノス島にはあります。今回はピークシーズンの少し前、6月初旬に訪れたミコノス島の様子を紹介します。

バカンスシーズン少し前のミコノス島へ

エーゲ海のキクラデス諸島。そのほぼ中央にあるミコノス島は、毎年6月から9月までのバカンスシーズンには大勢の旅行者でにぎわいます。ただし私が訪れたのは6月に入ってすぐだったので、まだピークではありませんでした。

真夏ではないもののギリシャの空は申し分なく晴れ渡り、日中は半袖でも暑いくらい。夏至も近いので日没は8時半ごろと1日をたっぷり楽しめます。ただし海に入るには少し冷たいですが。とりあえず私はこの島で一足早いバカンスを過ごすことにしました。

建物の木の部分は青く塗られていることが多い。また壁に花をあしらっているのもきれい

白壁の家々が続くミコノスタウン

島にある町は、500m四方ほどのミコノスタウンだけです。狭い路地が入り組み、多くのカフェやバー、レストラン、ショップがあります。歩いていると、壁に白いペンキを塗っている姿をあちこちで見かけました。忙しくなるシーズン前に塗り直しているのでしょう。白く塗るのは、強い太陽の日差しを反射して家の中が暑くならないようにするためでしょうか。それとも月明かりの中でも家が見えるようにするためでしょうか。ともかく見た目が白一色という町は、とても明るく感じます。ドアや木の枠は青や赤というのも、アクセントになっていていいですね。

飼いネコなのか野良ネコなのか、島のあちこちでネコの姿が目につく

そんな街を散策していると、よく視界にネコの姿が飛び込んできます。とくに階段は絶好のくつろぎ場所のよう。ミコノス島はネコ好きにはたまらない場所でしょうね。観光客の残り物をいただいて育っているのでしょうか

デロス島のアポロン神殿跡

歴史の舞台から消えたデロス島

ミコノス島にはこれといった歴史的な名所はありませんが、フェリーでわずか30分の距離に有名なデロス島があります。ギリシャ神話では、デロス島は太陽の神アポロンと双子で月の女神アルテミスが誕生した場所とされています。世界史では前478年に結成された「デロス同盟」が有名ですね。ペルシア戦争に勝ったギリシャ軍はその再来襲に備え、アテネを中心に200というポリス(都市国家)が軍事同盟を結びました。その本部が置かれたのがデロス島で、金庫に納入金が集められ、同盟会議も行われました。しかしこれは「アテネ帝国」とも呼べるもので、のちに金庫はアテネに移され、ペルシアと和議を結んだ後もアテネは同盟を強制しました。

かつて島には1万人あまりの人が住んでいましたが、現在は無人島です。残念ながら遺跡にあるアポロン神殿は、土台の部分しか残っていませんでした。デロス島のシンボルでもあるライオン像はその神殿に奉納されたものですが、レプリカで本物は博物館にあります。5500人を収容する大きな古代劇場もありました。遺跡は広く日陰がないので、夏場は帽子やサングラス、水のペットボトルは必携です。このデロス島の遺跡は世界遺産に登録されています。

ミコノスタウンのリトル・ヴェニスと呼ばれる観光エリア。後ろの丘に風車が見える

村上春樹氏があの名作を執筆していた島

再びミコノス島です。リトル・ヴェニスと呼ばれる港のレストラン街で休憩していると、近くの丘上に5つの風車があるのが見えました。それらはもともと小麦の粉挽き用に使われていたものですが、今では観光用に残されているのです。

海から少し離れた路地を歩くと、クラシックやニューエイジ風の音楽が流れている小洒落たカフェがいくつか目につきます。ある店ではこざっぱりした男性客が多かったのですが、ミコノス島はゲイカップルに人気の島でもあるんですね。後で知りました。

さて1990年代、作家の村上春樹氏がこのミコノス島に滞在していたことはご存知でしょうか。ベストセラーになった『ノルウェイの森』は、このミコノス島滞在中に書かれたものです。また、ミコノス島での滞在話はエッセイ『遠い太鼓』にも書かれているので、行く前に読んでおくと興味がより増すかもしれません。

夕暮れが近づいてきました。アノ・ミリの丘の上に登り、そこから港を見下ろします。空の色が次第に濃くなり、島の家々の明かりが目につくようになってきました。素晴らしいエーゲ海の日没が目の前に広がります。その景色を私はひとり、目に焼き付けていました。日本では味わえない贅沢な時間を使って。

湾を見下ろし夕暮れを待つ。正面に5つの風車が小さく見えた

 

 

エーゲ海の小島ミコノス島。日頃はせわしなく観光と移動の旅をしている私ですが、ここでは見どころもデロス島ぐらいしかないこともあり、のんびりと散策や読書を楽しんでいました。たった数日間の休養ですが、旅にはそんな時も必要です。そしてそんな旅のひとときもまた、“一生モノの旅”なのです。

 

 

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ミコノス島へのアクセス
アテネから飛行機で約40分。6〜9月は便数も多く、毎日10便ほど飛んでいる。船の場合はピレウス港から約5時間半。毎日3便以上。夏は片道2時間半の高速船も運行する。

デロス島へのアクセス
ミコノス島よりフェリーが出ている。行きは9時、10時、11時半、帰りは12時、13時半、15時。片道30分。冬季は減便。

 

前原 利行

日々、自分の興味があるものを追いかけています。音楽、映画、アート、歴史、そしてまだ見ぬ世界の風景や文化…。心に刻まれた一生モノの経験が、自分の最大の財産でしょうか。これからも、まだ知らない出会いを探していきたいと思っています。

前原 利行
この記事を書いた人

この記事を書いた人前原 利行

201903/11

街中が大盛り上がり スペイン東部の都市バレンシアの火祭り

こんな立派なファジャ(張り子人形)も最終日には燃やされてしまう

世界各地で行われている、郷土色豊かなお祭り。名所旧跡だけではなく、そうしたお祭りを見に行く旅というのもなかなか楽しいものです。お祭りの期間中は、街も人々もいつもと違い興奮気味。そして有名な祭りであれば、それを見にやってくる観光客も少なくありません。そうした内外の人々が一体になった独特の高揚感が得られるお祭りは、忘れられない思い出になります。今回はそんな中から、スペインの春を告げる祭りとして有名なパレンシアの火祭りを紹介しましょう。

火祭りが行われる守護聖人ホセの日

毎年3月15日から19日までの5日間、スペイン東部の都市バレンシアで町をあげて行われるこのお祭りは、日本では「バレンシアの火祭り」または「サン・ホセの火祭り」の名で知られていますが、スペイン語では単に「ファジャス Las Fallas」、バレンシア語なら「ファジェス」といいます。「ファジャ」とは、中世バレンシア語で「たいまつ」を意味していたそうですが、現在はこの火祭りそのもの、あるいは飾られる張り子の人形を指します。

期間中は市内の各所に、大小様々な張子の人形(ファジャ)が飾られます。大きいものは10m以上。人形の題材は伝統的なものから、風刺的なもの、その年を代表するものなどさまざま。年によっては、日本のアニメ作品のキャラクターが登場したこともあるとか。しかしせっかく作ったこれらの立派な人形も、最終日には惜しげもなく燃やされてしまうのです。

子供向けの小さなファジャ(張り子人形)もある

この祭りの起源は、かつて冬が明けた3月に大工職人が古道具などを燃やしていたことと、大工の守護聖人であるサン・ホセの日(3月19日)が結びついたからといいます。「ホセ」はイエスの義父であるヨセフのスペイン語名。イエスの一家の家業は大工でした。なのでホセ(ヨセフ)は大工の守護聖人なのです。

中世に栄えたバレンシアの町を散策

春先にスペイン行きを考えた時、私が是非とも見たいと思ったのが、この火祭りでした。そこで日程をうまく調整し、その期間中にバレンシアを訪れることにしたのです。

最終日は宿が取れなくなると聞いていたので、私は初日の3月15日にバレンシア入りし、値段の安い古びたペンションを見つけて荷を降ろしました。滞在していた5日間のうち、私は2日間を郊外(テルエルとクエンカ)の日帰り観光に、あとはバレンシア市内の見どころや祭りの見物をしていました。

中心部にあるカテドラルは、14世紀に完成したゴシック様式の教会です。「ラ・ロンハ」は15世紀末にゴシック様式で建てられた商品取引所の建物で、世界遺産に登録されています。2つとも当時のバレンシアの繁栄を示しています。ラ・ロンハの中庭のオレンジの木に実がなっていたので「これが有名なバレンシア・オレンジ」と思いましたが、後で調べたらバレンシア・オレンジの原産地はアメリカのカリフォルニアで、まったく関係ありませんでした(笑)。

商品取引所として建てられたラ・ロンハは世界遺産にも登録されている歴史的な建物

お祭り期間中の町の様子は…

町はこの5日間は完全にお祭りモードで、闘牛場も開いていました。スペインの闘牛シーズンは、このバレンシアの火祭りが幕開けとなります。つまりバレンシアではその年、どこよりも早く闘牛が見られるのです。また街中ではあちこちで、大きな鍋のパエリアが作られていました。おいしそうですがこれは近所の寄り合い用で、販売用ではありません。スペイン料理で有名なパエリアですが、その本場はこのバレンシアなのです。私は仕方なく、屋台のパエリアで我慢しました。

伝統衣装を着た女性たちによるパレードが、毎年2日間に渡って行われる

張り子の人形は3月15日から市内各所で飾り付けられます。これは大きな大人用のものと、小さな子供向けのものがあります。また、3月17・18日の16時からは街中で、民族衣装を着た女性や小さな女の子たちによるパレードも行われました。そしていよいよ最終日の夜になります。

これは子供向けの小さなファジヤを燃やすところ。これが終わったら子供は寝かせられる

祭りのハイライトは、張り子人形を燃やす「クレマ」


張り子の人形に火を燃やすイベントは「クレマ」と呼ばれ、日にちが変わる19日の24時に行われます。メインの張り子は市役所前に置かれていますが、かなり早い時間からもう人でいっぱいです。そこで私は、昼間に目をつけておいた小さな広場にある張り子のほうに陣取りました。

まずは22時になると、子供向けの小さな張り子が燃やされます。これが終わると子供は家に引き上げます。そして24時になるとメインの大人向けの人形が燃やされます。といってもピッタリの時間ではなく、各地区を回っている消防隊の到着を待ってからのこと。私は前の方に陣取っていましたが、これが大変でした。火をつけられた人形は紙と木でできていることもあり、みるみる燃え上がっていきますが、これがとても熱いのです。火の勢いに見物客はおもわず後ずさり。火の粉も降ってきて、悲鳴も聞こえます。そこでホースを持った消防士はどうするかというと…、消すのではなく見物客に水をかけるのです(笑)。もちろん本気の量ではありませんが、「水!水!」の掛け声が出るほど、本当に熱かったです。私が見ていたところは建物に囲まれた狭い広場で、そこに炎が10メートル近く上がるので、周囲が火事になる危険は確かにあるなと思いました。やがて人形が燃え尽きてくると、消防士が放水して鎮火。これでクレマは終了です。人々は散り散りになり、そのまま朝まで飲むのか、それとも1時に行われる市役所前のクレマに行くのでしょう。

この夜、とにかく町を歩く人々の顔にはみな高揚感が漂っており、こう書いていても興奮するイベントでした。

 

 

その夜私は途中で意気投合した日本人旅行者たちと深夜3時ぐらいまでバルで呑みました。私はその後、宿に帰って寝ましたが、宿が取れなかった旅行者は駅で夜明かししていたようです。翌朝、外に出てみると町はゴミだらけでした。きっとかなりの数の人たちが、夜遅くまで遊んでいたんでしょうね。このバレンシアの火祭り、私にとっては飛び切りのエキサイティングな体験になりました。あなたも参加すれば、“一生モノの旅”になるかもしれませんよ。

 

 

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バレンシアの火祭り
毎年3月15〜19日に開催。期間中はホテルが取りにくくなるので早めの予約を。また料金も特別料金で値上がりする。日帰りできる近隣の町に宿を取るのもいい。

 

 

前原 利行

日々、自分の興味があるものを追いかけています。音楽、映画、アート、歴史、そしてまだ見ぬ世界の風景や文化…。心に刻まれた一生モノの経験が、自分の最大の財産でしょうか。これからも、まだ知らない出会いを探していきたいと思っています。

前原 利行
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この記事を書いた人前原 利行

201903/07

珍しいグルメ発見! 生ハムで有名な雲南省諾鄧(ヌオドン)

魚や肉などの生食の習慣がない中国に、生ハム作りを見に行ってきました。「生ハム」は中国では「火腿(フオトゥイ)」と言います。火腿は中国では単にハムと言う意味ですが、実際は生ハムのことです。その中国で生ハムと言えば浙江省の金華ハムが有名ですが、産地は中国各地にあります。私が行ったのは、雲南省北部の町・大理から約165キロ離れた雲龍県の諾鄧(ヌオドン)です。毎年冬至になるとこの村中で生ハム作りをすると言うドキュメンタリー番組を見たので、冬至にばっちり照準をあわせて行きました。中国の生ハムの本場で、その生ハム作りを見られるなんて本当に貴重な機会です。人生初で最後と思い、行ってきました。

生ハム作りの季節にやってきたのに、まさかの展開

諾鄧は、秦、漢代から塩を産出している村です。塩は国家の専売品だったので明代には、塩を管理する「塩課提挙司」と呼ばれる役所も諾鄧に置かれていました。抜けるような冬の青空の下、石畳が敷かれた村のあちこちで「火腿、売ります」の手描き看板を目にします。これから人生初、豚の後脚に諾鄧産の塩を塗りつけて、生ハム作りをするところを見学できると思うと、ワクワクしてきました。ところが村人に聞くと、火腿作りはちょうど1週間ほど前に終わったそうなのです。冬至に照準を合わせてこんなに遠くまでやって来たのに、もう言葉もでません。

豆腐腸を作る村の広場。後ろは塩を管理する塩課提挙司があった場所

ショックでぼんやりと村を歩いていると、広場に村人が集まって、なにやら作業中。のぞきこむと白いぐにゃぐにゃしたものを作っています。それは「豆腐腸(トーフチャン)」と言う豆腐で作ったソーセージでした。豆腐に豚の血、五香粉を加えてものを混ぜたものを、豚の腸に詰めたものです。これを日陰の涼しいところに干し、豆腐が黒くなったら食べられるとか。生ハム作りは残念でしたが、豆腐腸作りが見られるのも滅多にないことです。とにかく見学させてもらうことにしました。

竹の棒に豆腐腸をしばりつけ、民家に運びこむ

中国でも珍しい豆腐腸とは?

豆腐腸は大理市永寧県の特産品ですが、火腿と比べれば無名です。地味な食材というのが原因のひとつかもしれません。しかし私にとっては特別な食材です。今回、生ハム作りを見に来るきっかけになったのは、中央電視台で放送された「舌尖上的中国(舌の上の中国)」と言う食のドキュメンタリー番組でした。実は前年、私はこの「舌尖上的中国」で取り上げられた安徽省の黄山へ、特産の「毛豆腐」を食べに行っています。その時、菌が表面にびっしりはえた毛豆腐に感動した私は、珍しい豆腐巡りを旅のテーマのひとつに決めていました。だからまさか諾鄧で豆腐を使った食材を見られるなんて、予想外のうれしい展開です! 翌日、豆腐腸が村の食堂で食べられるそうなので、村を出る前に生ハムを買っておくことにしました。

「火腿(生ハム)売ります」の看板。地鶏ハムや生ハム入りチャーハンも食べられる

諾鄧に行ったからには、やはり買ってみたい特産の火腿

諾鄧は781戸、人口約2200人の小さな村です。村のあちこちで「火腿売ります」の看板がかかっているので、そこで買うことができます。私が行った家では、塩を豚の足全体にまぶし、天上から吊るす前の状態のものを見せてもらうことができました。これだけでも感激です。生ハムは作ってから半年後ごろから食べられますが、やはり1~2年保存したものが美味しいと言われています。特に2年以上ものは熟成して本当に美味しそうですよ。

豚の足に塩をまぶした後、暗い場所に1か月おき、それから風通しが良い場所に吊るす

私が買った頃、生ハムは500グラム60元(約1080円)。「舌尖上的中国」で紹介され、値段が倍になったと言われている

火腿は、薄く切って炒めるより大きな塊を水で茹で、スープをとるのが一番上手な使い方だそうです。諾鄧ではこんな風に火を通して火腿を食べますが、上海や北京などの沿岸部の大都市では、薄く切って生のままワインと一緒に楽しむ人も増えています。

豆腐腸と干し豚を蒸したもの。豆腐腸は五香粉と干し豚の塩がきいているので蒸しただけのものを食べても美味しい

豆腐腸は豆腐? それともソーセージ?

さて翌日、村の広場に面した民宿兼食堂で、私は念願の豆腐腸を食べることができました。1か月以上干して外側が真っ黒になった豆腐腸。切ると、中は表面に比べて赤黒いグロテスクな感じです。これを20分以上茹で、臭みをとります。それを屋外で干した豚バラ肉のスライスと一緒に蒸せば、できあがり。お味は豆腐なのにしっかりした噛み応えがあり、肉そのもののよう。食感も味も豆腐ではなく、まさにソーセージでした。

 

生ハム作りを見に行き、私が旅のテーマのひとつにしている珍しい豆腐作りを見ることができました。この予想外の展開が私に教えてくれました。広大な中国大陸には、まだまだ外国人旅行者に知られていない珍しい食材があるのでしょう。日本にはない、面白い食材を求める旅は。これはまさに“一生モノ”の体験ができる、美味しい旅になることまちがいないでしょうね。

 

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アクセス
雲南省昆明から高速鉄道で大理駅へ。大理駅から徒歩で大理新バスターミナルへ移動し、7:30~16:40まで約40分おきに出ている、雲龍行きのバスで所要3時間。雲龍から三輪タクシーで約20元(約360円)。

 

浜井 幸子

古い街、面白い形の塔、粉もの料理など、何かワクワクするものを求めて旅をしています。最近は、中国大陸を夜行列車で移動することも少なくなりましたが、早朝、目的地の駅に着いた時の感じが好きです。まぶしい光の中、駅から一歩踏み出す時のあの緊張と期待が入り混じった気持ちを大切にしたいと思っています。

浜井 幸子
この記事を書いた人

この記事を書いた人浜井 幸子

201903/04

ウクライナの首都キエフ 異国情緒漂う都会の心地良い時間

ドニエプル川周辺に広がる、美しいキエフの町

最近、東欧の国、ウクライナが気に入って何度か旅行しています。1カ月以上滞在し、地方をまわってみたりもしました。すべてが宝物のような思い出ですが、そのなかで気づいたことがあります。首都のキエフにいつのまにか深い愛着を感じていたのです。なぜでしょう。そこには地方とは異なる、都会ならではの居心地よさがあったからです。

地方と都会との微妙な違い

「そう、コレよコレ!」。ウクライナの地方を旅してから首都のキエフに着くと、そう思うことが何度もありました。店が多いとか地下鉄が便利とか、そういうことではありません。人が違う…などと言ったら意外でしょうか。都会の人は冷たい、田舎の人のほうがやさしい、などと普通は言われますよね。もちろん私も、地方の人々の素朴なやさしさに触れたことは多かったはずですが…。そんなことは記憶の隅に追いやられ、キエフの人と接すると、「コレよコレ!」と膝を打ちたくなることが多いのです。

町の中心部は、ビルも道路も車もピカピカに見える

まず思ったのは、キエフでは人が私を見ないということです。ウクライナの地方では、本当に頻繁に人に見られました。めったにいないアジア人だからだと思われますが、アジア人に会わないのでそれを確認することもできません。帰りの飛行機でやっと日本人男性に会ったので訊いてみたら、「特に見られませんでしたよ」とのこと。ある人から「女性だからではないですか」と言われ、ハッとしました。ネットのブログで「ウクライナでやたら人に見られた」と書いている日本人女性がいたので、「アジア系の女性は見られる」のかもしれません。

キエフのせわしない地下鉄構内では、視線を感じることはありません

自分を取り戻していくような感覚

また今までのノリで、何かを訊くときは覚悟をきめ片言のロシア語で話しかけると、あっさり英語が返ってきて驚きます。私の英語なんかよりはるかに流暢で、みんながとても知的に見えます。レストランでウクライナ語のメニューと格闘し、勘で指さして注文しようとすると、「あら、裏に英語もあるわよ」。それだけでもう、キエフってすごいなと称賛モードに突入です。ホステルの部屋に入って、ルームメイトに「Hi」と英語で挨拶されただけでもうれしくなってしまいました。

何度か訪れているので、「帰ってきた」かのような安心感や、懐かしさもあります。中心部のフレシチャーチク通りは、歩道も広々とした気持ちのいい目抜き通りですが、そこから聖ミハイルの黄金ドーム修道院へ向かい、アンドレイ坂、ポディール地区まで。味わい深い街並みを毎度のごとく歩いて「パトロール」しては、満ち足りた気分になります。地下鉄やトラムに乗って郊外へ行けば、地元の人でにぎわう個性的なエリアがいくつもあり、広大なキエフでは何日いても飽きることがありません。

青く塗られた壁面が目を引く、聖ミハイルの黄金ドーム修道院

心にしみた笑顔のサービス

さらに都会には、マナーとしての笑顔もありました。テイクアウト専門のパスタ料理店に行ったときのこと。よく見れば隣の店のものなのに、外に椅子とテーブルがあると勘違いした私は、「ここで食べます」と言い張っていました。すると店員の女性は、困りながらも笑顔を絞りだし「持ち帰りだけなんだけど、いいかしら…」と話を進めました。笑顔につられて私も「それなら、持ち帰りで」と承諾。調理を待つあいだに、椅子が他店のものとわかったのですが、マヌケな客に対してもとりあえずは笑顔で接する店員さんのしぐさが、とても都会っぽいと思いました。些細なことですが、久々に感じる微妙な空気感です。

それのどこが都会っぽいのかと思われるかもしれませんので、ある地方での出来事を紹介します。英字で「PANCAKE」と名のついたカフェを見つけたので、パンケーキを食べようと入ってみました。けれども壁のメニューに、パンケーキが見当たりません。そこで若い女性店員さんに訊いてみると、「パンケーキはないです。マフィンやタルトはあります」との答え。パンケーキがないことより、それを一切の笑顔なしで言う点が私にはショックでした。この国では英語自体がめずらしい言葉なので、意味が店の内容と直結していなくても気にならないのだろうと推測しましたが、厳しい口調でピシャリと言われてなんだか落ち込んでしまったのです。

そんなとき、自分の感覚とは違う世界があることを思い知らされます。でも世界中が同じだったらつまらないのです。「これも旅の醍醐味。私はこういう違いを知るために旅をしているんじゃないか」と自分に言い聞かせました。こんなことが重なっていたころ…先に書いたような店員さんの笑顔に出会い、忘れていた感覚を思い出したのです。「コレよコレ!」。無償の笑顔が都会ならではだと。

テイクアウトしたパスタを食べた公園。日曜の午後の幸せな光景

地方から来たせいで、気づくこと

もちろん地方には地方の良さがあります。それを求めて出かけていき、楽しみました。長い旅のそのあとだからこそ、キエフならではの良さが、今までにない小さなレベルで浮き彫りになったのだと思います。どこから来るかによって、町の印象は変わるものなのですね。旅行者の勝手な解釈ではあるのですが、そこで新たな魅力が加わったりもするのです。

地方を旅行中、ウクライナ人の旅人と出身地の話になって「キエフ」と答える人は、いつもどことなく複雑な表情だったのを覚えています。「人が多くて…」「忙しい町だから…」とネガティブな言葉がつづき、真正面から「故郷のキエフが大好きです!」と言っている人はいませんでした。外国人はたいてい故郷が大好きで、大きな誇りをもっているというイメージがあったので、意外でした。

 

 

住んでいる現地の人は胸を張って「好き」とは言わなかったキエフですが、私は声を大にして「キエフが好き」と言いたいです。1000年以上の歴史をもち、目を見張るような建造物や美しい風景があるばかりでなく、そこには現代的で洗練された人々がいるからです。旅人にやさしいこの町を基点に、これからもウクライナの旅を繰り返すのは確か。私にとっては、“一生モノの場所”です。自然あふれる田舎や、のんびり時間が流れる地方都市より、大都会キエフのほうが気楽に過ごせるという不思議。それに慣れるとまた刺激を求め、地方に行きたくなるのかもしれません。

 

 

Chiri

人知れず旅に出て、ひっそり帰ってくるソロトラベラー。地元の人でにぎわう街をウロウロするのが何より好き。世界のどこかからひそかに持ち帰った一生モノの感動、驚き、学び、気づき…そんなあれこれを、ここに打ち明けさせてください。

Chiri
この記事を書いた人

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201902/28

まるで冒険映画の世界 インドの幻想的な「生きた橋」

木の気根を誘導して作った橋は、地域の人にとって大事な通り道

インド最東端の山の中に、少数民族が生きた木の気根を編んで作った橋が点在します。橋は何百年も生き続け、緑の風景に溶け込み神秘的な姿を見せています。このような橋がなぜ作られたのでしょうか。

ちょっと行きにくい場所、あまり知られていない場所を訪れ、そこにしかない何かに出会えたら、ありきたりな場所へ行くよりも、旅の満足度は何倍にもなります。私が訪れたインドの辺境地帯が、ちょうどそんな場所でした。インドの定番とは異なる風景や食べ物、人々に出会い、毎日がわくわくする発見の日々。なかでも特殊な気候が生み出した「生きた橋」を目の当たりにできたことは、その旅のハイライトともいえるものでした。

インドのなかでも特殊な地域

「生きた橋」があるのは、インドでも最も北東に位置するエリア。最狭部32kmの細長い通路のような土地でインド本土と結ばれて、バングラデシュをまたぐように延びている部分です。7つの州から成るため、この地は「7姉妹州」と呼ばれています。

右側の濃いオレンジ色の部分が7姉妹州。メガラヤ州のほかに、アッサム州、トリプラ州、ミゾラム州、マニプル州、ナガランド州、アルナーチャル・プラデーシュ州があります

この地域はモンゴロイド系を含む多くの少数民族が暮らす、民族の宝庫。本土とは隔絶されたロケーションと、独特な自然環境、そして普通のインドとは全く異なる東アジア的な文化もあります。かつては入域制限も多い情報の少ないエリアでしたが、2010年あたりから許可なしでも入れる州が増え、外国人旅行者も訪れやすくなりました。行くなら今がチャンスかもしれません。

州都シロンから「生きた橋」を目指す

7姉妹州の玄関口といえるのが、国際空港を備えたアッサム州のグワハティ。「生きた橋」があるメガラヤ州の州都シロンは、そこから南に約100kmの場所にあります。私はシロンの観光案内所などで情報を集め、大きな荷物を宿に置き、1泊2日で「生きた橋」を目指すことにしました。

シロンからチェラプンジへ向かう車窓からの眺め

シロンのバラ・バザール(マーケット)から出ている「チェラプンジ(ソーラ)」行きスモをなんとか見つけて乗り込みます。「スモ」はローカル向けの乗り合いバンのこと。3列の席にそれぞれ4人ずつ乗ったぎゅうぎゅうの状態で、ひたすら南西へ向かいます。

周囲は木が少ない荒涼とした風景で、本当にジャングルの中にあるという「生きた橋」に向かっているのだろうかと不安になります。

チェラプンジで定期的に行われるマーケット

1時間半ほどでチェラプンジの町に着くと、週に一度のマーケットが開かれていました。ローカル感あふれる雰囲気があまりにも面白く、写真を撮りながらぐるぐると歩き続けました。

農作物や肉、果物などを売買しているのは、メガラヤ州の主要民族であるカーシ族。現在も母系制を保持し、豚肉をよく食べるなど、インド本土にはない特有の文化をもちます。

ただひたすら谷を下って最初の「生きた橋」へ

チェラプンジの町で、さらに先に向かうスモを探し当てて乗り込み、ティルナ村への分岐で下車しました。辺りにはいつの間にか緑の風景が広がっていました。ティルナ村から徒歩でしか行けない場所にノングリアート村があり、「生きた橋」はその周辺にあるようです。

ティルナ村を過ぎると長い長い下り階段が続きます。段差が小さいコンクリートの階段を下ること30分で谷底に到着。徒歩5分ほどの川辺に、立派な「生きた橋」が架かっていました。

「長い木の根橋」と呼ばれるJingkieng-Ri-Tymmen

「生きた橋」は、インドゴムノキから垂れ下がる気根を竹などにからませ誘導し、長い年月をかけてそれが成長したときにやっと完成する橋です。

最初に目にしたこの構造物も、成長した木の根がしっかりと結び合い、立派な橋を形作っていました。辺りに人は一人もおらず、豊かな緑のなかでひっそりと息づく「生きた橋」。そこには自然の一部でありながらも、人の手が加わった不思議な存在感があり、その美しさ、珍しさは強く印象に残りました。

さらに奥のノングリアート村に宿泊

「長い木の根橋」があった場所から、ノングリアート村へまでは徒歩30~40分。この村にはゲストハウスがあり宿泊もできますが、頑張ればシロンから日帰りも可能でしょう。細いヤシの木がたくさん生えた、徒歩でしか行けないとてものどかな村です。

ノングリアート村の近くには、「ダブルデッカー」と呼ばれる2重の「生きた橋」が架かっていました。この辺りには大小8ヵ所の「生きた橋」がありますが、これはとくに有名な橋です。恐らく下の橋が必要を満たさなくなったので、新しい橋を上に架けることにしたのでしょう。

「ダブルデッカー」。地元の人によると上は80年前、下は200年前に作られたそうです

「生きた橋」が生み出された背景

ところで、チェラプンジという名前が出たところで気づいた人もいるかもしれませんが、この地域は世界屈指の多雨地帯として知られています(チェブランジは年間降水量世界一を記録したことがあります。東京の約8倍)。橋がある場所はすべて、5月中旬~9月のモンスーンの季節には、激しく水が流れる河川となるのです。

雨が多い山岳部では、奔流に架けられた木の橋は、流されたり腐ったりしてすぐに使えなくなってしまいます。生きたインドゴムノキの気根は、恐らくそんな環境に耐えられる唯一の伝統的な建材だったのでしょう。メルヘンチックにも思える「生きた橋」は、実は特殊な気候の地域で暮らす人々の知恵と、自然の力が生み出したものだったのです。

 

現地で行き方を調べ、手探りで訪れたノングリアート村。交通手段がなかなか見つからなかったり、思ったよりも時間がかかったりなど、予測できないことが多くありました。でも、それだからこそ、目的地に行けたうれしさや、予想外のものに出会えた喜びは大きかったです。これらの橋を、ほとんど人がいない場所で眺めることができたのも、特別な体験となりました。

まだ秘境感がたっぷり残るノングリアート村と、その周辺に散らばる「生きた橋」。訪れてみれば、あなたにとっても“一生モノの旅”となるに違いありません。

 

菅沼 佐和子

初めて海外を一人旅したとき、こんなに遠くまで来たこと、そして完全に自由であることが、猛烈にうれしかった記憶があります。日本にはない風景や異質な文化、未知の人々に出会うのも大きな喜びですが、究極的にはそれらを含め、「どこか遠くにいる自由な自分」をより強く感じさせてくれる場所が、私にとっての“一生モノ”の旅先なのです。

菅沼 佐和子
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この記事を書いた人菅沼 佐和子

201902/25

著名人が眠るパリの3大墓地 その3 モンパルナス墓地

モンパルナス墓地。奥に見えるのは59階建てのモンパルナス・タワー

著名人が多く眠るペール・ラシェーズ墓地、モンマルトル墓地と、パリ市街の墓地を紹介してきましたが、最後に紹介するのがパリ左岸14区にあるモンパルナス墓地です。ここは500メートル四方ほどあるかなり大きな墓地で、モンパルナス駅からは徒歩10分ほど。今はビジネス街になっていますが、モンパルナスは2つの大戦の間の1920年代は、パリの知識人や芸術家たちが集う場所でした。特に移民や外国人芸術家たち、ピカソ、シャガール、モディリアーニ、ジャコメッティ、ミロ、アメリカからは小説家のヘミングウェイやフィッツジェラルド、日本からは藤田嗣治、岡本太郎などがこのモンパルナスのカフェに集っていたのです。しかしそんな時代も世界恐慌と続く第二次世界大戦で幕を閉じます。そんなモンパルナスにあるのが、この墓地です。では、そこにある墓をいくつか訪れてみましょう。

セルジュ・ゲンスブールの墓

異色の歌手セルジュ・ゲンスブール

まずは日本ではそれほど有名ではありませんが、フランスではその名前を知らないものはいないという歌手・俳優のセルジュ・ゲンスブールの墓へ行ってみましょう。彼は作詞・作曲もする自作自演スタイルで、時には過激な歌も歌い、1965年にフランス・ギャルに提供した「夢みるシャンソン人形」がヒットします。1968年に女優のジェーン・バーキンと出会い、やがて一緒に暮らし始め、2人のデュエット「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」はヒット。娘シャルロット・ゲンスブールが生まれますが、2人は1980年に別れてしまいます。ゲンスブールは1991年に62歳で亡くなりました。彼の墓には今も訪れる人が多いようで、いろいろなものが置かれていました。メトロの切符が置かれているのは、彼のデビュー曲「リラの門の切符売り」にちなんだものだとか。

ジーン・セバーグの墓

悲劇的な死を迎えたジーン・セバーグ

ショートカットの「セシルカット」の代名詞となった女優のジーン・セバーグの墓も、この墓地にあります。アメリカ人のセバーグは、フランソワーズ・サガン原作の映画化『悲しみよこんにちは』(1957)の主演でブレイク。その後、フランスに渡りゴダール監督の『勝手にしやがれ』(1959)でジャン=ポール・ベルモンドと共演し、一躍ファッションアイコンに。しかし以降はヒット作に恵まれず、後年精神を病み、1979年にパリで自動車の中で自殺しているのが発見されました。40歳でした。

ジャック・ドゥミの墓

名作ミュージカルを監督したジャック・ドゥミ

ジャック・ドゥミは1960年代に活躍した映画監督です。1961年に『ローラ』で監督デビュー。1964年、カトリーヌ・ドヌーヴ主演のミュージカル『シェルブールの雨傘』が世界的なヒットをします。セリフがなく、ミシェル・ルグラン作曲による歌によって語られる斬新なスタイルで、主題歌も人々に広く愛されました。近年大ヒットしたミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』が、この作品にオマージュを捧げた作品であることはご存知でしょうか? しかし70年代中盤からドゥミは作品に恵まれず、いつしか忘れられる存在になり、1990年にエイズにより死去しました。しかし2000年代から作品のデジタル修復が進み、そのカラフルな映像美が再評価され、『ロシュフォールの恋人たち』(1967)、『ロバと王女』(1970)がリバイバル上映されました。妻は同じく映画監督のアニエス・ヴァルダです。

アンリ・ラングロワの墓

映画の保存に貢献したアンリ・ラングロワ

最後に、一般的には馴染みがないと思いますが、フランス映画好きなら彼に感謝しなくてはならないというアンリ・ラングロワの墓に私は行きました。トルコ出身のラングロワは、1936年、21歳の時にパリにシネマ・アーカイヴを発足させます。当時、映画のフィルムは公開後には裁断されて再利用されていました。映画は娯楽で、芸術として保存するという考えがなかったのです。こうして貴重な古典作品のフィルムは失われていったのですが、それを私費で収集してアーカイヴを作ろうとしたのが彼なのです。ラングロワによるフィルム上映会により、1960年代の映画運動ヌーヴェルヴァーグを担った、トリュフォー、ゴダールといった若者たちが旧作の再発見をし、作家として育っていきました。1968年には彼の存在を疎んだ政府によりラングロワが更迭された「ラングロワ事件」が起きますが、たちまち内外の映画人による批判を受け、政府はそれを撤回せざるをえなくなりました。ラングロワは1977年に亡くなりました。訪れた彼の墓はその功績を讃えるかのように、映画のシーンがコラージュされたものでした。

いかがでしたか? 自分の趣味を反映して映画人の墓巡りになってしまいましたが、モンパルナス墓地には他にも多くの著名人が眠っています。「怪盗ルパン」で知られる作家のモーリス・ルブラン、『愛人 ラマン』の原作者マルグリット・デュラス、哲学者のサルトルと伴侶で作家のボーヴォワール、詩人のボードレール、劇作家のイヨネスコ、作曲家のサン=サース、無政府主義の父と言われたプルドン、写真家のマン・レイなどが有名です。

 

大通りにカフェが並び、戦間期には芸術家たちが集ったモンパルナス。第二次世界大戦後は、芸術家や知識人たちは拠点をサン=ジェルマン=デ=プレに移り、活況が戻ることはありませんでした。そのモンパルナス大通りから歩いて行ける距離にあるこの墓地、機会があったら足を運んでみてはどうでしょう。故人の墓の前に立ち業績を偲ぶことも立派な旅の目的。そんな“一生モノの旅”があってもいいかもしれません。

 

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モンパルナス墓地に眠る著名人のリスト(https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_burials_at_Montparnasse_Cemetery

 

前原 利行

日々、自分の興味があるものを追いかけています。音楽、映画、アート、歴史、そしてまだ見ぬ世界の風景や文化…。心に刻まれた一生モノの経験が、自分の最大の財産でしょうか。これからも、まだ知らない出会いを探していきたいと思っています。

前原 利行
この記事を書いた人

この記事を書いた人前原 利行

201902/21

一度行ったら、一生通いたくなる街・台北 「街歩きの楽しい都市」ナンバーワンの理由

人々の温かな日常に触れられる、台北の街角

台湾は日本人に人気の行き先。すでにリピーターとなり、お気に入りの店やエリアがいくつもある…そんな方がたくさんいることでしょう。だからこそ「行ったことがない」という人に会うと、「なんで?」とその良さを力説したくなる私ですが…じつは台湾に行き始めたのはここ10年ほど。一度行ったらたちまち夢中になりました。特に台北は、街歩きが魅力的な都市としては世界有数ではないでしょうか。まだまだ経験不足ではありますが、台湾ファンの一人として、「台北が街歩きに最強」なその理由をまとめてみたいと思います。

とりあえず、にぎやかでないと!

まず店が多い。そして地元の人が多い。これは楽しい街歩きに不可欠の要素です。歩いても歩いても、こんなに店が立ち並ぶ町があるでしょうか。初めて台北を訪れたとき、ガイドブックの地図上で何も描かれていない場所に行っても、そこにお店がズラリと並んでいるのを見て驚きました。商店街を見かけたら歩かないと気がすまない私は、あっちへ行かなければ、こっちも…と大忙しです。

提灯が飾られた、風情ある路地

そんな庶民的な商店街を中心に飲食店の数もハンパなく、食の楽しみがいっぱい。おいしいものには事欠きませんし、ドリンクスタンドの充実にも目を見張ります。代表的な台湾グルメ以外にも、自分でおかずをチョイスできるお弁当屋さんも気になるし、日本でいう洋食屋さんやステーキ店なども「台湾ではどうだろうか」といちいち入ってみたくなります。私はパンが好きなので、ベーカリーも必ずチェック。日本にありそうでない、工夫を凝らしたおいしい菓子パンは素通りできません。

歩きながら、美しいディスプレイに見惚れることも

散策が止まらない、エンドレスな町

暗くなればあちこちで夜市が開かれていて、毎晩お祭りのようです。また西門界隈は22~23時ごろまで、飲食店はもちろんファッションのお店も開いていてにぎやか。朝から夜までくまなく街歩きができる都市は、そうそうありません。際限なく店はあるわ、いつまでも開いているわ、まさにエンドレス。歩き疲れてヘトヘトなのに、街歩きが止まらず、宿に帰るのはいつも遅くなってしまいます。

しかもすごいのは、治安がいいことです。海外ではスリや詐欺師など、街角には観光客を狙った専門の犯罪者がいそうなものですが、そういう人が日本並みにいません。おつりのごまかしもなし。だからユルユルで旅ができます。ほかの国だと安全面を考えて、または店が閉まるという理由で、夜はホテルにいることが多いのですが、ここでは出ずっぱりとなります。歩いていて私が注意すべきと思ったのは、曲がる車が歩行者優先ではなく、車優先でグイグイ来ることが多い、そのくらいです。

色とりどりの看板に、たくさんのバイクが台北らしい

快適に歩けて、気軽に休める

気分を変えてモールやデパートに行けば、近代的な空間でショッピングができ、一流品を見ることもできます。さらに台北には巨大な地下街があり、地下だけでも本気で見れば1日がかり。地下なので、雨の日だって快適です。雨といえば、商店街の歩道に沿って屋根がついていることが多いのも、台湾の特徴。外にいたって傘なしで歩けてしまうから助かります。

そして素晴らしいのはお店の前などにベンチが置いてあり、無料で座れる椅子が多いこと。いちいちカフェに入らずとも気軽にひと休みできるのは、街歩きでかなりの高ポイントですね。コンビニでも休憩スペースがあるのが当たり前。またカフェに入ると、持ち込みのパンやお菓子などを食べている人がたまにいます。それでも何もとがめられない、おおらかなところも魅力です。

台北で大きく移動したいときは、地下鉄が便利。路線はわかりやすく、料金も安いです。また、台北地下鉄のトイレは頻繁に掃除されていてきれいです。駅にトイレがあると思うと、安心して1日出歩いていられます。さらに私はまだまだ乗りこなせていませんが、バス路線もかなり発達しているので細かく移動できます。

屋根つき歩道あり、地下街ありで、雨の日でも街歩きが快適!

安心感と異国情緒の共存

それから台湾は日本人にとって、ある程度文字が理解できるのがいいですね。漢字なので地名は覚えやすいし、看板を見て意味がわかることも多いですから。漢字はあちらが発祥なのに、「これをこう書くのか」と、思わず感心したり、ツボに入ってクスッとしたりすることも。飲食店ではメニューを見て内容を想像できたり、お店の人と筆談で意思疎通できたり。街歩きもますます充実しますね。

人に目を向けてみれば、現地の方たちは日本人観光客に慣れており、とても親切。異国へ行って、ここまで気楽に過ごせることはなかなかないでしょう。海外にいるとは思えないような安心感がありながら、街は日本とは違います。漢字だらけのカラフルな看板がびっしり並び、趣のある古い街並みも多く残っていて独特。目ではなじみのある文字も、聞くとまったくわからない中国語…。異国情緒あふれ、旅ごころが盛り上がります。こうした「安心感と異国情緒の共存」こそ、台北の大きな魅力ではないでしょうか。

看板の意味がわかるとニンマリ、うれしくなります

「私には台北がある」という支え

また、街といえばファッション。台北は欧米と違って、日本レベルの微妙なおしゃれが通じる、世界でも稀有な場所ではないかと思います。日本のファッション雑誌が普通に浸透しているので、世界的なモードとは別の、東京の流行(カジュアルからフェミニン、コンサバまで)がそのまま理解され評価されます。日本で「これが今おしゃれ」という服を、海外で着ると誰もわかってくれない、むしろ浮いている…そんな経験をした方なら、この違いがわかると思います。

おしゃれが楽しいそんな台北は1年中温暖で、真冬に訪れてもそんなに寒くありません。気候の良さは楽しい街歩きの大切な条件ですよね。近いから休みが短期間でも行きやすくて、もちろん時差ボケなし。たくさんの航空会社の路線があり、航空券も驚くほどお手ごろです。こんなにいいことずくめの行き先がほかにあるでしょうか。

 

街歩きの魅力が、これでもかというくらいそろった台北。いつでも気軽に行けて、何度行っても飽きず、ホッとでき、新しい発見がある。だから人気の町なのでしょう。私にとっては、手軽で確実なこころの避難所。「あそこに行けば大丈夫」という、お守りのような“一生モノの旅先”なのです。

 

Chiri

人知れず旅に出て、ひっそり帰ってくるソロトラベラー。地元の人でにぎわう街をウロウロするのが何より好き。世界のどこかからひそかに持ち帰った一生モノの感動、驚き、学び、気づき…そんなあれこれを、ここに打ち明けさせてください。

Chiri
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201902/19

伝説のアトランティス 火山爆発により形作られたサントリーニ島へ

サントリーニ島の旧港。崖上にあるのはフィラの町

今まで世界を旅し、いろいろな海を見てきました。その中でも独特の色を持っているのが地中海です。熱帯の海にはない、少し黒みを含む深い青さ。映画『グラン・ブルー』で憧れた、あの青さです。ギリシャのエーゲ海にあるサントリーニ島は、その海の青と建物の白のコントラストがまるで芸術品のような景観を作り出しています。その美しさから観光で知られる島ですが、ここはアトランティス伝説の舞台とも言われています。今回はそんな伝説の島への旅を送ります。

断崖がある絶景。エーゲ海に浮かぶサントリーニ島

ギリシャ本土とトルコのアナトリア半島の間に広がるエーゲ海。その海域に散らばるキクラデス諸島南部に位置するのが、サントリーニ島です。断崖の上にある白い町からの眺望がすばらしいことから、ギリシャの中でも特に人気の高い島です。日本での知名度も高く、CMのロケ地に使われたこともあります。しかし私が行こうと思ったのは、絶景もさることながらアトランティス伝説との関係を知っていたからでした。

島の東側にあるカマリビーチ。砂浜の黒砂は火山岩が砕けたもの

夏の観光シーズンが始まる前の5月、私はミコノス島の滞在を楽しんだ後、フェリーでサントリーニ島へ向かいました。島が近づいてくると、目の前に急な断崖が迫ってきます。島の中心となる町フィラは崖の上にあり、船着場からの高低差は250m。昔はきつい階段を歩いて登るか、ロバに荷物を載せて運ぶしかなかったようですが、今ではバスやタクシー、ケーブルカーでも行けます。心配しましたが、まだ観光シーズン前なのでホテルが満室ということはありませんでした。私はひとまず荷物を部屋に置き、外へと飛び出しました。

大きな島の中央部分が噴火により陥没し、海になってしまったことがわかる

プラトンが書き記したアトランティス伝説とは?

サントリーニ島は細長い三日月型をした島で、その三日月の内側の部分が断崖になっています。この断崖は火山の噴火により島の中央が陥没してできたもの。つまり現在のサントリーニ島は大きなカルデラの外縁部なのです。

古代ギリシャの哲学者プラトンがその著作の中で記したアトランティスの話をしましょう。プラトンの時代(前4世紀前後)よりさかのぼること9000年前、大西洋にアトランティスという大きな島(大陸)があり、海神ポセイドンの血を引く人々の国が栄えていました。しかしやがてアトランティスの人々は傲慢になり、領土の拡大を目指します。アテナイ(アテネ)はギリシャ諸国と連合してかろうじて勝利しますが、その直後、アトランティスは神々の罰を受け、地震と津波で一昼夜にして海中に水没してしまいます‥。

アトランティスという島が本当にあったかどうかは、歴史学ではプラトンの創作だろうと考えられていました(プラトン以外に出典がないため)。しかしサントリーニ島で起きた火山の大爆発がわかると、これがアトランティス伝説のもとになったのではないかという学説が生まれたのです。

サントリーニ島の古代ティラの遺跡。これはミノア文明よりずっと後の、古代ギリシャ〜ローマ時代の町の遺跡

サントリーニ島に残るミノア文明の遺跡

サントリーニ島の火山噴火が起きたのは、紀元前1610年ごろ。これは世界でも千年に一回という大噴火で、エーゲ海一帯に大変な災禍をもたらしたようです。当時、エーゲ海ではクレタ島のミノア文明が栄えていました。サントリーニ島にもミノア文明時代のアクロティリ遺跡があります。これはフィラの町から10kmほど離れた場所にある町の遺跡ですが、すっかり火山灰に覆われていました。ここからは「ボクシングをする少年」「百合とツバメ」といった、ミノア文明を代表する壁画が発掘されています。この遺跡から遺体や貴金属が見つからなかったことから、噴火は突然ではなく住民は避難していたようです。それから半世紀後、ミノア文明は突然滅びますが、この大噴火との因果関係はわかっていません。

イアの町からの眺め。空と海と教会のドームの青が調和している

崖上の町から見る夕暮れのエーゲ海

崖上にあるフィラの町を歩くと、眼下にすばらしいエーゲ海が見渡せました。通りにはホテル、カフェ、レストランがびっしりと並んでいます。一ヶ月後のバカンスシーズンを控え、壁のペンキを塗り直したり、店の改装をしたりしている姿も見られました。

フィラの町から島の北端の小さな町イアへは、バスで約30分。バスを降り白壁の家々が続く細い道を行くと、サントリーニ島の写真によく使われている青ドーム屋根の教会が見えてきました。確かに目の前にこの教会があると、眺望にはいいアクセントになりますね。

夕日に染まるフィラの町

昼間は深い青をたたえた海も、日が傾いてくるとその色を失っていきます。夕日に染まる島と海。その絶景を見ていると、かつてここであった大噴火やアトランティス伝説も、どこか現実離れしたできごとのように思えてきました。そしてふと、自分がずいぶん遠くへ来てしまったという思いがよぎりました。

 

ギリシャ有数の観光の島サントリーニ島。夏になればクルーズ船が次から次へと停泊し、ビーチは観光客であふれ、ホテルは満室となる人気の観光地です。そんな場所なので、紀元前に島の形が変わるほどの大災害があったとはなかなか想像がつきません。しかしざっくりと削られた断崖を見ていると、確かに大自然の破壊力の大きさを感じます。そんな自然と伝説をめぐる旅もまた、“一生モノの旅”なのです。

 

前原 利行

日々、自分の興味があるものを追いかけています。音楽、映画、アート、歴史、そしてまだ見ぬ世界の風景や文化…。心に刻まれた一生モノの経験が、自分の最大の財産でしょうか。これからも、まだ知らない出会いを探していきたいと思っています。

前原 利行
この記事を書いた人

この記事を書いた人前原 利行

201902/17

トルコに残る古代遺跡 ヒッタイト王国の都ハットゥシャ

大城塞といわれる宮殿跡。かつては日干しレンガでできた建物がそびえていた

トルコは古代遺跡の宝庫です。おそらく古代ギリシャ・ローマの都市遺跡に関しては、その本土よりも保存状態がいいかもしれません。しかしこの国にはそれよりもはるかに古い遺跡があります。今回紹介するのは、古代ギリシャ・ローマ時代よりも千年あまり昔に栄えたヒッタイト王国の都、ハットゥシャです。世界で初めて鉄器を使用した国として知られるヒッタイト。その都は日本の人気少女マンガの舞台にもなりました。私は2度その遺跡を訪れましたが、印象深かった最初の訪問の様子をつづってみます。

悪天候の中、到着したハットゥシャ

冬も近い11月初旬のアナトリア高原。カッパドキアを出た私はバスとタクシーを乗り継ぎ、目的地であるハットゥシャ遺跡を目指していました。今にも雨が降りそうな空の下、人気のない丘陵をいくつも越え、タクシーはようやく遺跡が遠目に見える道路沿いの安宿に着きました。宿があまりにも静まり返っていたので、ご主人に聞くと「シーズン、フィニッシュ!」との返事。他に客はいないようです。

荷を降ろしひとまず外に出ましたが、外は昼だというのに真っ暗です。今にも雨が降りそうな空と強い風、そして岩が露出する荒涼とした大地が目の前に広がっていました。谷を隔てた向かいにハットゥシャ遺跡はあるのですが、この悪天候。行くのは翌日にし、この日は反対方向にある小さな岩壁遺跡「ヤズルカヤ」を見に行くことにしました。

ヤズルカヤは、ヒッタイト王国末期に岩場を利用して造られた露天神殿です。建物は残っていませんが、岩壁に神々の行進などの浮き彫りが残っています。観光客が誰もいない中、ひとりで古代の浮き彫りの前に立っていると、どこからか古代の兵士が現れそうにも思え、少し怖いものさえ感じてきました。私は足早にその場を立ち去り、宿に戻りました。

ヤズルカヤの岩壁に彫られた神々の行進の浮き彫り。3500年前のものでかなり磨耗している

人類初の鉄器文明を築いたヒッタイトの盛衰

前17世紀にアナトリア高原(現在のトルコのアジア部分)に建国したヒッタイトは、人類初の鉄器文化を築きます。古王国時代にはメソポタミアに遠征し、バビロン第一王朝を滅ぼしたこともありますが、その後一時衰退。しかし新王国時代に勢いを取り戻してシリアへ進出し、前1285年頃にはシリアのカデシュでエジプトのラムセス2世の軍と戦います。これは軍事記録が残る世界最古の戦争です。双方が勝利を記録していますが、実際は引き分けかヒッタイト側の勝利だったようです。この戦いの後、世界最古といわれる国家間の和平協定が結ばれます。それを記録した粘土版がこの場所で発見されたことから、この遺跡がヒッタイトの都だったハットゥシャであることがわかりました。

繁栄を誇ったヒッタイト王国ですが、前1200年頃に滅亡します。そのころ地中海全域に進出していた謎の民族集団「海の民」の侵略が原因とされています。都は炎上し、その後、この地に都市が再建されることはありませんでした。

大神殿の入り口。遺跡の中ではもっとも低いエリアにある

ハットゥシャ遺跡へ入場

翌朝起きると、ひと晩待った甲斐があり空は晴れ渡っていました。宿から遺跡のあるボアズカレ村まで1kmほど歩き、ハットゥシャ遺跡に入場します。

古代から都市はたいてい地の利がいいところに築かれました。交通の便がいい海や川に面していたり、谷間にあったりするのですが、ハットゥシャはそれらとは少し違っていました。海からは300kmほど離れ、近くには大きな川もありません。標高約1000メートルの丘陵が続く丘のひとつです。私はなぜここに都が置かれたのか不思議な気がしました。

ハットゥシャ遺跡は、東西約1km、南北約2kmに渡り、丘の斜面に広がっています。地図では大したことがない距離でも実際には斜面になっており、登り下りには体力を使います。ぐるりと回ると5〜6kmはあり、徒歩でじっくり見るなら3〜4時間は必要でしょう。なので車を使って、ピンポイントで見どころだけを回る人もいます。

遺跡に入り、最初に見えてくるのが「大神殿」です。建材には日干しレンガが使われていたので、残っているのは石の土台の部分だけ。全部で200あるという部屋のいくつかには、貯蔵用の大きなかめが露出していました。人々から集めたものはまず神に奉納してから再分配していたので、神殿は貯蔵庫でもありました。

ハットゥシャから発掘されたエジプトとの和平協定を示す粘土板(イスタンブール考古学博物館収蔵)

都城を囲む門と宮殿跡

市街を囲む城壁には6つの門があり、現在はそのうちの3つが復元されています。順路の最初にあるのが「ライオン門」、次が遺跡で一番高い場所にある「スフィンクス門」、3つ目が「王の門」です。遺跡に残る門の浮き彫りはすべてレプリカで、本物は博物館に収められています。スフィンクス門の下には地下道があり、城門を通らずに外に出られるようになっていました。地下道の高さ3メートル、長さは70メートル。途中はわりと暗く、周りに誰もいなかったり、あるいは見知らぬ人と一緒になったりすると、通るのが不安になるかもしれません。

「ニシャンタシュ」は、ヒッタイト最後の王シュッピルリウマ2世の偉業を彫った碑文です。しかし。まもなく国が滅んでしまうかと知ると、見ていて物悲しいものを感じます。

最後が「大城塞」と名付けられた王宮です。これも基礎部分しか残っていません。しかし発掘された1万枚に及ぶ粘土板の中に、前述したラムセス2世との和平協定文がありました。この粘土板は、現在イスタンブールの考古学博物館に展示されています。

発掘が続くハットゥシャの大神殿。200に及ぶ部屋の多くは、穀物などの収蔵庫だった

ハットゥシャ遺跡は世界遺産に登録されるような歴史上重要な遺跡ですが、古すぎて見た目がかなり地味で、観光客も多くはありません。よほど遺跡好きでなければ楽しめないかなと思っていたら、意外にも日本の女性たちが訪れていることを後で知りました。実はハットゥシャは、単行本累計が1800万部という篠原千絵のベストセラー少女マンガ『天は赤い河のほとり』の舞台になった場所なのですよね。これは少女コミックに1995年から2002年にかけて連載された作品で、単行本で全28巻に及ぶ大河作品です。ネットを見ると、熱心なファンの方達がハットゥシャを訪れています。私は後から人に勧められて知って読みました。先に読んでから遺跡を訪れたら、また違う感想があったかもしれません。

 

20世紀に発見されるまで、その存在さえ疑われていたヒッタイト王国の都ハットゥシャ。悪天候の中向かいましたが、幸いにも遺跡を訪れた時は天候も回復しました。その数年後に訪れた時もいい天気でした。しかしなぜかこの遺跡を思い浮かべると、なぜかあの亡霊が出そうな荒涼とした風景のほうが浮かびます。その時写真を撮らなかったのが、今となっては残念なぐらいです。そんな旅の情景もまた、“一生モノの旅”かもしれません。

 

[DATA]

ハットゥシャ(ボアズカレ)へのアクセス
アンカラからはバスでスングルルの町へ行き(約3時間)、そこから乗り合いバンで40〜50分。カッパドキア方面からなら、カイセリからバスでヨズガットまで行き(約3時間半)、そこからタクシーで40分

 

 

前原 利行

日々、自分の興味があるものを追いかけています。音楽、映画、アート、歴史、そしてまだ見ぬ世界の風景や文化…。心に刻まれた一生モノの経験が、自分の最大の財産でしょうか。これからも、まだ知らない出会いを探していきたいと思っています。

前原 利行
この記事を書いた人

この記事を書いた人前原 利行

201902/15

インド最果ての秘境ラダック 雄大な自然と友との邂逅

花畑の間の小さな流れで顔や頭を洗う友人

インド最北端の山岳地帯で、数年来の知り合いである友人の実家に招かれました。観光地化されていない村の雄大な自然と、厳しい自然のなかの素朴な暮らしに触れる、忘れられない旅となりました。

旅先で、現地人の家に泊めてもらったことはありますか? 旅をしていると、「ぜひうちに来てほしい」という招待を受けることが時折あります。中にはあやしいお誘いもあるし、旅のスケジュールがいっぱいで行く時間がないときもあるでしょう。しかし信頼できそうな人を見極め、思い切って行ってみると、それがかけがえのない体験になることがあります。私にとってはインド北部で友人の実家を訪れたことが、これまでで最も印象に残った現地人の家滞在となりました。

普通の旅行では絶対行かないような場所

訪れたのは、インド最北端のジャンムー・カシミール州と、その隣のヒマーチャル・プラデーシュ州の境にある、チュミギャルツァという村です。標高2000m前後の山岳リゾートであるマナーリーという町から、標高3500mにあるレーを中心とするラダック地方へは、夏にのみ開通する長い道が延びています。その村は、その道路の途中にあるサルチュという場所から、約2時間歩いた場所にありました。

道路沿いにお茶や食べ物を売るトタン製の小屋が並ぶサルチュ

訪れたのは、インド最北端のジャンムー・カシミール州と、その隣のヒマーチャル・プラデーシュ州の境にある、チュミギャルツァという村です。標高2000m前後の山岳リゾートであるマナーリーという町から、標高3500mにあるレーを中心とするラダック地方へは、夏にのみ開通する長い道が延びています。その村は、その道路の途中にあるサルチュという場所から、約2時間歩いた場所にありました。

チュミギャルツァ村は20戸ほどの民家から成る集落で、ホテルも飲食店もなく、観光客はまず行かない場所です。2つの州がそれぞれ領有権を主張しているエリアのため、携帯電話が通じず、地図にも表示されないことが多いです。現地の人が案内してくれなかったらなかなか行けませんし、その存在すら知ることがなかったでしょう。

レーを朝まだ暗いうちに発ち、もうもうとほこりが入り込んでくるバスに揺られて約8時間。サルチュでバスを下りました。

黒い点のように見えるのは野良犬。飢えると人を襲うことがある恐ろしい存在なので、ラダックの人々は非常に警戒していました

雄大な自然の中を村までハイキング

サルチュには、友人タシのお母さんが迎えに来てくれていました。ここからチュミギャルツァ村までは、山と川の間を縫って続くかすかな道をたどって歩きます。

あいにくの曇り空でしたが、標高4000mを超えると思われる木のほとんど生えない土地で、切り立つ山々の峰や、放牧されたヤギの群れ、清らかなツァラップ川を眺めながら行くのは爽快でした。なかでも一番美しかったのは、ようやくたどり着いたチュミギャルツァ村の風景。麦の穂が揺れ、黄色い花が咲き乱れるこの土地は、短い夏を謳歌しているように見えました。

レーなどの町の家に比べると簡素ですが、ここにもラダック伝統のダイニングルームが

素朴な村の暮らしを垣間見る

友人の実家は、日干しレンガで作られた伝統的なラダックの家でした。冬の間の家畜の飼料となる麦の穂が、屋根に積まれていました。父親は所要で町に行っているとのこと。私は持参のテントを家の前に張らせてもらい、ここに2日間滞在しました。

食器がずらりと壁に並ぶ、ラダックらしい台所がこの家にもありました。手前のストーブに、拾ってきた小枝や動物の糞を入れて火をつけ、煮炊きをします。

水はきれいな流れの場所まで汲みに行かなければいけません。すぐに燃えてしまう燃料を集めるのも一苦労でしょう。麦の栽培と家畜の放牧で生計を立てる、この地の暮らしの大変さが思われました。

2階の小部屋は仏間になっていました。ラダック人の多くはチベット仏教を信仰しています。お経の束が壁に並び、宗教的な絵や、彼らが敬愛するダライ・ラマ14世の写真が飾られ、器に入れた水や米、ヤクのミルクで作ったバター灯が供えられていました。

短い夏を喜ぶかのように黄色い花が咲き誇るチュミギャルツァ村

絶景の中での牧歌的な日々

村での日々は、とてもシンプルでした。

朝は花畑の間を流れる冷たい小川で顔を洗い、前日の服を洗濯します。食べ物や飲み物は、基本周囲でとれたもの。伝統のバター茶を飲み、トゥクパと呼ばれる麦の粉とチーズを入れたスープや、ヤクの干し肉をいただきます。野菜は貴重で、夏の間のわずかな期間にのみ栽培できるそうです。

日中は周囲を散策。一歩外に出るだけで美しすぎる風景が広がり、近くにはフクロウが棲む独特な形の谷や、かつて金色の魚がいたという、おとぎ話に出てきそうな池などがありました。近所のおじいさんがヤクの毛でロープを編んでいるところを見かけて、お手伝いもしました。

夜は「チャン」という、麦から作ったビールのようなお酒を飲みながら、友人に通訳してもらってお母さんと話したり、ラダック語の単語を習ったり。就寝前、戸外には満点の星空が広がり、眠りにつくのが惜しいほどでした。

冬はツァラップ川の水が減少し、村に車で入ることができるそうです

夢見るような美しさに後ろ髪を引かれながら

3日目、チュミギャルツァ村を後にした私は、サルチュから乗り合いバンを乗り継いで山を下り、ケイロンという町に1泊して、森の緑に包まれたマナーリーへ下りました。

標高が高く、周囲に町はなく、人が暮らすには非常に厳しい環境のチュミギャルツァ村。でも、だからこそ美しい自然と昔ながらの暮らし、そして心温まる人々との出会いがありました。村をあとにした私は、まるで天上界にでもいたかのように、しばらくの間夢見心地の状態でした。

 

もしあなたに仲のよい外国人の友達がいたら、その人の実家はどんなところかと尋ねてみてはいかがでしょうか。もし興味を引かれる場所で、タイミングが合って訪れることができたら、普段とはひと味違った旅になるに違いありません。もしかすると、それまでまったく知らなかった場所が、その後何度も訪れたくなる”一生モノ”の旅先になるかもしれませんよ。

菅沼 佐和子

初めて海外を一人旅したとき、こんなに遠くまで来たこと、そして完全に自由であることが、猛烈にうれしかった記憶があります。日本にはない風景や異質な文化、未知の人々に出会うのも大きな喜びですが、究極的にはそれらを含め、「どこか遠くにいる自由な自分」をより強く感じさせてくれる場所が、私にとっての“一生モノ”の旅先なのです。

菅沼 佐和子
この記事を書いた人

この記事を書いた人菅沼 佐和子

201902/13

スターになった気分で散策 大都会のオアシス、ニューヨークのセントラルパーク

公園南側にある直線の並木道ザ・モール

子供の頃からアメリカ映画や洋楽で育ってきた私には、ニューヨークに行ったら訪れたい場所のひとつにセントラルパークがありました。この都会のオアシスとも言える公園は多くの映画のロケ地となり、ビッグネームのコンサートも開かれるなどと親しみがあったからです。今回はそんな私の憧れの場所、セントラルパークをご案内します。

セントラルパークの概要と歴史

マンハッタンの真ん中にあるセントラルパークは、南北約4km、東西0.8kmの長方形の形をしています。日比谷公園の約21倍あるという公園は起伏に富んでおり、森や丘、池、広場などがあるほか、スケートリンクや動物園、温室もあります。

開園は1873年ですから日本では明治維新のころ。当時のニューヨークはまだ人口も少なく、街の中心はずっと南で、このセントラルパークがあるあたりはまだ「郊外」といった趣きでした。ジョン・レノンが住んでいたことでも知られるダコタ・ハウスが、このセントラルパークに面して建てられたのは1884年のこと。その名前の由来が「周囲が(当時の)ダコタ州のように閑散としていたから」というくらい、この辺りは淋しかったようです。しかし20世紀に入ると、周囲は一気に高級住宅街に変わっていきます。それにともないセントラルパークは、周囲の住民の憩いの場になっていきました。

ニューヨークの治安が悪化した70年代末になると、セントラルパークは強盗やレイプ事件が続出するという「犯罪の温床」のイメージがついてしまいます。これが改善されたのはアメリカの景気がよくなった90年代以降のこと。セントラルパークの犯罪件数は、この20年で1/10に減ったといいます。

ジョン・レノンを記念する公園内にあるストロベリーフィールズ。 そこに埋め込まれた「imagine」のプレート

ジョン・レノンとセントラルパーク

公園は広いですが、ほとんどの観光客が散策するのは南側の部分ではないでしょうか。今回のセントラルパーク散策のスタート地点は、西72丁目にあるダコタ・ハウス向かいの入り口からです。

ダコタ・ハウスは前述したようにジョン・レノンがオノ・ヨーコと一緒に住んでた高級アパートメントで、レノンの部屋はセントラルパークに面した最上階の角、公園が見渡せる位置です。このダコタ・ハウスを舞台にした映画にはオカルト映画の傑作『ローズマリーの赤ちゃん』、トム・クルーズ主演の『バニラ・スカイ』などがあります。

レノンはこのアパートに帰宅したところ、玄関で撃たれて亡くなりました。公園に入ってすぐの場所にはレノンを記念した「ストロベーフィールズ」があり、「イマジン」のプレートでは記念写真を撮るファンの姿が絶えません。自宅から近いこともあり、ジョン・レノンのPVのうち「マインドゲームス」と「ウーマン」はセントラルパークで撮影されています。また、生前最後のアルバムとなった『ダブル・ファンタジー』の篠山紀信によるジャケット写真も、このセントラルパークで撮影されています。

ベスセダ噴水の向かいにあるベスセダ・テラス。上は道路になっており、車が走っている

ボウ・ブリッジとベスセダ噴水

ストロベリーフィールズから下って行くと、池が見えてきます。ここにかかる橋が「ボウ・ブリッジ」です。「ボウ」は「弓」のことで、橋の真ん中が少し盛り上がっていることから名付けられました。

1873年の開園時には製作された「ベスセダ噴水」。多くの映画のロケ地になっている

橋を渡らずに先に進むと、1873年製作の「ベスセダ噴水」に出ます。周辺はベスセダ・テラスという見晴台になっています。ここは『素晴らしき日』『世界中がアイ・ラブ・ユー』『アベンジャーズ』など様々な映画のロケに使われていますが、私が一番印象的なのは『魔法にかけられて』です。おとぎ話の世界に住むジゼル姫が現代のニューヨークに現れるミュージカルコメディで、ディズニー映画のパロディにもなっています。この噴水広場では「That’s How You Know」が歌って踊られますが、セントラルパーク内の他の見所も映し出されるので、行く前に必見ですよ。

セントラルパークの南側にある緑地「シープ・メドウ」。かつてはその名のように牧羊地だった

並木道ザ・モールと緑地のシープ・メドウ

このベスセダ噴水から南に延びているのが、公園内で唯一まっすぐな道が続く「ザ・モール」という歩道です。すぐに道の上に橋がかかっていますが、この橋の下、歩道の屋根の部分にあたるのが「ミントンタイルの天井」です。橋の下を抜けてザ・モールを進むと、アイスクリームやホットドッグの屋台が並ぶ並木道になります。映画では『クレイマー、クイレマー』『バニラ・スカイ』に登場しますね。

このザ・モールの西側にある広場「シープ・メドウ」は、手前の緑と奥に見える摩天楼の対比がすばらしいニューヨークを代表する風景。天気のいい日は日光浴している人の姿が見られます。映画では『フィッシャーキング』『メン・イン・ブラック2』『クローバーフィールド』に登場します。

ザ・モールの西側にあるレストラン「タバーン・オブ・ザ・グリーン」もよく映画に登場します。1976年の改装後はセレブのパーティにもよく使われたとか。映画『ゴーストバスターズ』にも出てきますね。ただし2014年の再オープン後は、カジュアルなレストランに変わってしまいました。

公園内にあるレストラン「タバーン・オン・ザ・グリーン」

人気コンサートが開かれたザ・グレート・ローン

さて今までは公園を南に下ってきましたが、今度はセントラルパークの中央にある一番大きな広場を紹介しましょう。「ザ・グレート・ローン」と呼ばれるこの広場では、1981年にサイモン&ガーファンクルの再結成コンサートが行われました。入場無料のフリーコンサートで、50万人もの人が集まったといいます。その放送を当時テレビで見て、「外国の公園ではこんなすばらしいライブがあるんだ」と羨ましく思ったことを覚えています。この場所では他にもエルトン・ジョンやダイアナ・ロスもコンサートを行っています

公園はこのザ・グレート・ローンから北にも続いてはいますが、残念ながら私は行ったことがありません。歩く人は南側に比べて少ないようです。夜や早朝でなければ治安面でそれほど心配はないようですが、ひとり歩きは避けたほうがいいかもしれません。



好きな映画や音楽の舞台になったセントラルパークは、私にとって単なる公園ではありません。そこはかつて夢に見た世界に連れて行ってくれる、特別な場所なのです。きっとあなたもこの公園に行けば、どこかで見た風景をいくつか思い出すのではないでしょうか。ニューヨークのセントラルパークはそんな私にとって“一生モノの旅”の場所のひとつなのです。


[DATA]

セントラルパーク(www.centralparknyc.org)
タバーン・オブ・ザ・グリーン(www.tavernonthegreen.com)

 

前原 利行

日々、自分の興味があるものを追いかけています。音楽、映画、アート、歴史、そしてまだ見ぬ世界の風景や文化…。心に刻まれた一生モノの経験が、自分の最大の財産でしょうか。これからも、まだ知らない出会いを探していきたいと思っています。

前原 利行
この記事を書いた人

この記事を書いた人前原 利行

201902/11

自然と自分をつないだ生き物たちの森 ボルネオ島の熱帯雨林観察ツアー

ガラマ川の夕焼けは美しい

ガラマ川の夕焼けは美しい

「自然環境保護が大切」なことは頭ではわかっていても、ふだんの生活の中で実感する機会はなかなかないものです。どこか遠い国の遠い森が破壊され、そこの生き物の生存がおびやかされていても、自分とは関係ないことのように思ってしまいがちですね。私もそうでした。しかし、ボルネオ島でネイチャーツアーに参加したとき、自分と自然が“ひと続きである”と心から感じたのです。これは私にとって一生モノのツアーでした。

自然観察が盛ん、しかし破壊も進むボルネオ島

世界で3番目に大きな島、ボルネオ島。私が参加したツアーは、そのマレーシア領サバ州のコタキナバルから出発しました。専用車に乗り、まずはガイドさんからこの辺りの自然や産業などについて説明を聞きます。目的地の川に着くまでは、アブラヤシのプランテーションが続いていました。アブラヤシの植林は熱帯雨林破壊の大きな原因ですが、マレーシアの重要な産業です。そこから作るパームオイルは日本にも大量に輸出されていますが、低賃金労働という問題も抱えています。そんな説明を聞くと、この国の環境破壊や労働環境についての責任の一端を日本も負っているとわかってくるのです。

晴れればマレーシア最高峰のキナバル山の頂上を望むことができる

晴れればマレーシア最高峰のキナバル山の頂上を望むことができる

遊園地のボートクルーズとは緊張感が段違い

2時間ほどでガラマ川という川に着き、ここからボートに乗っての自然観察です。この川は川幅が狭いのですが、それだけ川岸の生き物を近くで見ることができます。また、ホタルの出現率も高いため、ツアーによく選ばれています。

ボートツアーが始まるのは、生き物の活動が活発になる夕方から。整然と並んでいたアブラヤシのプランテーションとは似ても似つかない、混沌とした森をボートは進んでいきます。水の色が黒く見えるのは「タンニンを多く含んでいるから」とか。ぬめぬめと黒光りする水面を眺めているうちに、振り返るとボート乗り場がもう見えなくなっていました。さあ、いよいよジャングルのただなかです。

動物好きな私は、「何か動物を見られたらラッキーだな」ぐらいの軽い気持ちで参加しました。けれども次第に気持ちが引き締まってきます。この森は、鳥やサルなどはいうまでもなく、もっと小さな動物、目に見えないほどの虫、それらを覆い隠す植物たちが主役の世界です。そこでは、人間はただの迷惑な脇役。それが私にはたとえようもない快感であり、同時に畏れも湧き上がってきます。操舵も観察も人任せのツアーでも、ふだんは弛緩している感覚を呼び覚ますには十分でした。

テングザルのボスが私を見ていた

テングザルのボスが私を見ていた

絶滅危惧種の「テングザル」とは

このツアーでは、カニクイザルやミズオオトカゲ、イリエワニの赤ちゃん、そしてキラキラ輝くホタルなどを観察することができました。私が目を皿のようにして「何か見つけよう」と思うよりも早く、ガイドさんが生き物を見つけてくれます。また、熱帯雨林のユニークな植物についても解説してくれますよ。しかし、なんといってもこのツアーの目玉は「テングザル」です。野生のテングザルはここボルネオ島にしか棲息していません。しかも、現在は絶滅の危機に瀕しているのです。

テングザルの特徴は、オスの垂れ下がった大きな鼻と太鼓腹。オスの鼻は大きいほど、メスにとって魅力的に映るそうですよ。お腹が膨れているのは、腸が長いから。テングザルは猿としては珍しく、木の葉をたくさん食べるので、消化のために腸が長くなり、太鼓腹になったそうです。木の葉は苦くて毒性も強く、栄養価も果実より劣りますが、果実を好む他の猿と食べ物を取り合わずにすみます。見た目はユーモラスですが、環境に適した進化の形だったんですね。

熱帯雨林特有の美しい樹冠のシルエット

熱帯雨林特有の美しい樹冠のシルエット

動物園では決して味わえない感動

ボートからオスのテングザルを初めて見たときの気持ちは、何年たっても忘れることができません。私が木の上を見上げたとき、ボスザルとおぼしき彼は、すでにボートをじっと見下ろしていました。メスや子猿はモーター音を聞くと枝の上を逃げていくのに、このオスだけは落ち着き払っています。少しでもよく見ようとして浮き足立っているのは、むしろ人間の方なのです。私はカメラを下ろしてボスを見上げました。この瞬間、たしかに“目が合った”と感じました。「錯覚かもしれない……」「錯覚でもいい」。不思議な形の大きなサルが、目の前であのように絶滅の危機を生き延びている。そう思うだけで、胸がいっぱいになりました。川に初めて出たときに感じた、つかみどころのない“自然への畏敬”は、このように最良の形で像を結んでくれたのです。

ラフレシア。花盛りは過ぎてもなお圧倒的な存在感

ラフレシア。花盛りは過ぎてもなお圧倒的な存在感

開花を見ることはきわめて稀な「ラフレシア」

さて、ボートツアーに続き、翌日は森を歩くツアーに参加してみました。こちらの主な目的は、幻の花「ラフレシア」を見ること。ラフレシアは世界最大の花で、開花までに1~3年かかりますが、開花すると数日で腐ってしまいます。しかもつぼみは味が良くて動物に食べられやすいため、熱帯雨林に行っても咲いている花を見られる確率はきわめて低いのです。私はキナバル公園近くの民家で、幸運にも開花したラフレシアを見ることができました。

そこでは初めて見る花の異様さに、息を呑みました。「花」の持つ、愛らしさや可憐さからはほど遠い、グロテスクとさえ思える姿。昔、これを見たヨーロッパ人が人食い植物だと信じてしまったのもうなずけます。円く空いた真ん中の穴の奥には蕊(しべ)がありますが、確かに、もしここに手を入れたら食べられてしまいそうな気がするほどです。さらに見つめていると、血の通う動物のようにも見えてきます。咲き終えた花がそのまま真っ黒に腐っていく姿はすさまじいもので、真ん中の円形の穴から断末魔の叫びが響いてくるように思えました。

花に対して、このような怖れに近い感情を抱いたのは生まれて初めてのことです。ラフレシアはキナバル公園で見たどの植物とも少しも似ておらず、どれよりも強烈な存在でした。そして昨日見たばかりのテングザルの姿も重なりました。動物と植物の違いはあれ、この熱帯雨林での生存競争に勝つため、両方とも他の種とは異なる進化を遂げて生き延びていたのです。

「自然環境を守りたい」という気持ちが心から湧き上がるような体験を

この二日間のツアーで、テングザルとラフレシアという、見ることがきわめて難しいふたつの生命を観察することができました。それらは、いまだに謎の多い環境に守られながら生き延びてきた、孤高の姿でした。日常生活にすっかり戻った今でも、あのふたつの生き物の姿は目に焼き付いたままです。これらのツアーはとても気軽に参加できるものです。それで“一生モノ”の体験ができるなら、参加する価値はあると思いませんか?

神谷

「長い旅、遠い国への旅、地を這う旅」こそが至上の旅だと思い込んでいた若いころ。今は旅が短くても、近くても、安楽でも、その中に一生忘れられないきらめきを見つけることが上手になりました。“旅とふたり連れの人生”の旅をしています。でもいつかまた、地を這う旅に戻ってみたい気持ちも……。行きたいところはいつでもいっぱいです!

神谷
この記事を書いた人

この記事を書いた人神谷

201902/09

“一生モノ”となる海外卒業旅行選び 編集部が選ぶ5つのおすすめスポット!

自由の女神とマンハッタンの高層ビル群(ニューヨーク)

自由の女神とマンハッタンの高層ビル群(ニューヨーク)

そろそろ卒業旅行に出かけている人、またはこれからという方もいらっしゃるかもしれません。あるいは卒業は来年ですが、どこに行こうかと漠然と考えている学生さんもいるでしょう。そんな方々へ、今回は「一生モノ」編集部が選んだ、「卒業旅行で行きたい海外5選」を紹介します。

01. アートとエンタテインメントの街ニューヨーク(アメリカ)

「卒業旅行では知的な刺激が欲しい!」という方におすすめなのがニューヨーク。ここは世界最高峰のアートとエンタメが楽しめる都市です。美術館なら、古代美術から近代絵画までを収蔵するメトロポリタン美術館と、ピカソやゴッホなどの近代絵画中心のニューヨーク近代美術館の2つは必見です。現代アートならグッゲンハイム美術館とホイットニー美術館ですが、街中にもアート最前線の空気を感じさせてくれる数多くのギャラリーがあります。エンタメではブロードウェイでのミュージカル鑑賞がおすすめ。クラシックならメトロポリタン・オペラやアメリカン・バレエ・シアターの公演、ジャズやロック好きならライブハウスのスケジュールも要チェックですよ。

また、ニューヨークは街を歩くだけでも刺激的です。歴史的建造物からモダンなビルディング、街中のアート、映画の舞台の場所、最先端ショップや小さなアートギャラリーまで見どころもたくさん。ニューヨークで見た素晴らしいものは、社会人になってもきっとあなたの役に立ちますよ。

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メトロポリタン美術館 公式HP >

 

ニューヨーク近代美術館 公式HP >

 

グッゲンハイム美術館 公式HP >

 

ホイットニー美術館 公式HP >

 

ブロードウェイミュージカル情報 >

アメリカン・バレエ・シアター 公式HP >

 

 

02. 中海の陽光の下でガウディ建築に酔いしれる/バルセロナ(スペイン)

2026年の完成を目指し、建築が進むサグラダ・ファミリア(バルセロナ)

2026年の完成を目指し、建築が進むサグラダ・ファミリア(バルセロナ)

卒業旅行シーズンの2〜3月は、ヨーロッパの大半では寒い冬。その中でもできるだけ暖かい場所に行きたいという方にオススメなのが、スペインのバルセロナ。地中海に面した温暖な気候で、この時期でも東京の4月の気温程度なので過ごしやすいでしょう。

バルセロナで見たいのは、やはり天才建築家ガウディの建築ですね。なかでも世界遺産登録されている教会サグラダ・ファミリアは必見です。2026年完成予定なので、未完成の姿が見られる絶好のチャンスですよ。また、バルセロナはピカソ、ミロ、ダリといったスペイン現代絵画の巨匠が活躍した街。美術館で彼らの作品を見てみるのもいいでしょう。

そしてバルセロナはグルメの街でもあります。気軽に入れるバルを巡り、小皿料理タパスと自家製ワインをいただき地元気分を満喫。時間に余裕があればバルセロナを起点に、イスラム時代の雰囲気を残すアンダルシア地方などスペイン南部へ足を延ばしてみてもいいでしょう。

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サグラダ・ファミリア 公式HP >

 

 

03. ガンジスの日の出を眺め、新しい人生のスタートを祈願/ヴァーラーナシー(インド)

ガンジス川に昇る朝日(バラナシ)

ガンジス川に昇る朝日(バラナシ)

学生生活が終わり、社会人としての新生活を始めるまでの間に行く卒業旅行。「旅で心をリセットしたい」というあなたにおすすめなのが、インドです。そこでは日本の常識を超えた体験が、あなたを待っていますよ。

インドでは人ばかりか街を歩く動物たちも自由そう。最初はインド人の押しの強さにびっくりするかもしれません。よく言えば「大らか」、悪く言えば「ルーズで図々しい」のですが、やがてインドを旅する多くの人(特に個人旅行者)が「こんな生き方もあるんだ」と感じ、気が楽になっていくようです。そんな体験はきっと今後、仕事で壁にぶつかった時に、発想の転換やメンタル面でのしぶとさに役に立っていくはずです。

そんなインドの編集部おすすめの場所は、ヒンドゥー教徒の聖地バラナシです。人々が沐浴する聖なるガンジス川のほとりで、そこに昇る朝日を見て心を清らかにする。人生の一区切りには最高の旅先です。

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ヴァーラーナシー 公式HP >

 

 

04. 気軽に行ける外国! 街歩きやグルメを楽しむ/台北(台湾)

レトロな街並みと眺望が人気の九份へは、台北からすぐ

レトロな街並みと眺望が人気の九份へは、台北からすぐ

「日程を友人と合わせるのが大変で、長期旅行は無理」という方におすすめなのが台北です。フライト時間は成田から約4時間30分、関空からは約3時間15分と日本から近いこの海外は、2泊3日の旅行でも十分楽しめます。また往復2万円台の格安LCC、航空券と宿泊ホテルがついただけの格安ツアーも多く、時間的にも予算的にも台北は行きやすい海外なのです。

この台北での楽しみは、やはりグルメとショッピング。台湾料理は日本人の口にも合い、少人数なら屋台料理の食べ歩き、大人数なら中華の名店にも行くのもいいでしょう。名物の「小籠包」や台湾スイーツの数々は外せません。観光では、中国の秘宝を集めた故宮博物院とレトロな街並み散策が楽しい九份は是非行きたいところ。

そして仲間と盛り上がるのが、市内各所で毎晩開かれる夜市巡りです。雑貨の店に寄りつつ、屋台のB級グルメを食べ歩くのはお祭りのような楽しさ。女性同士ならエステやスパ、マッサージで心身ともにリラックスするのもおすすめです。

[DATA]
台湾観光ガイド 台湾交通部観光局(日本語)>

 

 

05. アジアンリゾートでのんびり英気を養う/バリ島(インドネシア)

夕日を見ながらのビーチディナーもいい(バリ島)

夕日を見ながらのビーチディナーもいい(バリ島)

「親しい友達とのんびりと海辺のリゾートですごしたい」「仲間たちとワイワイと遊びたい」。その両方に対応しているのがバリ島です。きれいな海、物価が安くて庶民的、治安がいいなどの魅力ポイントがあるバリ島ですが、他のアジアンリゾートとの大きな違いは、伝統文化が日々の暮らしに息づいていること。バリダンスやケチャといった伝統のパフォーマンスももちろん、リゾート内でも毎朝供えられるお供えを見れば、バリの人々の信心深さがわかるはずです。「神々の住む島」と呼ばれるゆえんですね。そんな環境や島民のホスピタリティが、心をリラックスさせてくれます。

グループで行く場合は、仲間で一軒借り切ってしまうヴィラやファミリールームを選べば、夜までワイワイしたい時にも周囲に気兼ねがいりません。また数人で車を借り切ってしまえば移動も割安。昼間はマリンスポーツやショッピングを楽しみ、夜はビーチディナー、バーやクラブ巡りも楽しいでしょう。

[DATA]
バリ州政府観光局運営サイト(英語)>

 

個人で行くも良し、仲間と行くのも良しの卒業旅行。余裕があれば、長い春休みを利用してそれぞれ別々に行くのも手かもしれません。働き出したら、しばらくはこうした休みはなかなか取れなくなるのですから。今回はそんな卒業旅行におすすめの旅先を5つセレクトしてみました。その時は気がつかないかもしれませんが、ゆったりとした時間を過ごしたり、親しい仲間と楽しく過ごした卒業旅行は、あなたの“一生モノの旅”になるかもしれませんよ。

一生モノ 編集部

一生モノを探して、日々奮闘中です。実際に足を運び、取材、体験することで、皆さまが一生モノを見つけるお手伝いをしたいと思います。こんなコンテンツや情報が欲しいなどのご要望やご意見、お待ちしております。お気軽にお問い合わせください!

一生モノ 編集部
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この記事を書いた人一生モノ 編集部

201902/08

歴史好きの海外旅行 エーゲ海に浮かぶクレタ島への歴史と神話の旅

イラクリオンへ向かう船。エーゲ海の各島間を定期船が就航している

イラクリオンへ向かう船。エーゲ海の各島間を定期船が就航している

私が世界各地を旅行していてうれしいのは、世界史の教科書で学んだ場所に実際に行けることです。私は古代史好きだったので、ギリシャへの旅はとてもワクワクしたものでした。それに子供の頃からギリシャ神話に親しみもありました。なかでも印象深い神話に、牛頭人身の怪物ミノタウロスと迷宮ラビリンスの話があります。今回紹介するのは、その神話の舞台となったクレタ島への旅です。実際のクノッソス宮殿に立つとは、子供時代の私は夢にも思わなかったことでしょう。

クノッソス宮殿跡。これは後世の復元部分だが、当時の様子が想像できる

クノッソス宮殿跡。これは後世の復元部分だが、当時の様子が想像できる

クレタ島の中心都市イラクリオン

クレタ島は東地中海に浮かぶ東西約200kmの細長い軍艦のような形をした島で、面積は日本の兵庫県ぐらい。エーゲ海最大の島です。アテネから島づたいにエーゲ海を南下していた私は、サントリーニ島から船に乗り、クレタ島のイラクリオンに到着しました。イラクリオンはクレタ島最大の都市で、人口約18万人。小さな町を想像していましたが、船から見える街並みは意外にも近代的でした。ここに来た一番の目的は、もちろんクノッソスの宮殿跡を見るためです。ただし訪問は翌日にし、その日はイラクリオンの街を歩いてみました。

イラクリオンの町を築いたのは、9世紀にクレタ島に侵入したアラブ人たちです。その後、13世紀初頭にヴェネチア共和国が占領して現在も残る城塞を築き、地中海交易の拠点としました。17世紀には力をのばしていたオスマン帝国の領土となりますが、20世紀にギリシャの一部として独立を果たします。

イラクリオンの旧港にあるヴェネチア時代の要塞

イラクリオンの旧港にあるヴェネチア時代の要塞

町は新市街と旧市街に分かれていますが、私は見どころが多い旧市街に宿を取り、町を散策しました。旧市街にある旧港に立つと、向かいに16世紀に建てられたヴェネチア時代の要塞が見えます。その後、街中を歩くと、クレタ島で最大の教会という聖ミナス大聖堂に出ました。建てられたのは19世紀のオスマン帝国時代です。ギリシャはキリスト教でも西欧とは異なるギリシャ正教会の国。建物や中の雰囲気も西欧とは異なります。たとえばギリシャ正教会では三次元の聖像は禁止されているため、ここでも二次元のイコン画が祭壇に飾られていました。

イラクリオン旧市街にある聖ミナス大聖堂

イラクリオン旧市街にある聖ミナス大聖堂

ギリシャ神話の中の迷宮(ラビリンス)

まずはギリシャ神話に登場するクノッソスを紹介しましょう。ギリシャの主神ゼウスとテュロス王の娘エウロペ(ヨーロッパの語源はここから)の間に生まれたミノスは、成長してクレタ島の王になりました。その時、ミノスは王位継承の証として生贄となる牡牛が必要になり、海神ポセイドンにその牡牛を願います。ポセイドンはそれに応じて海から牡牛を送りますが、牡牛があまりにも美しかったため、ミノスは別の牡牛を生贄に捧げてしまいました。怒ったポセイドンは、罰としてミノスの妻パシパエが牡牛に欲情を抱くようにします。その結果、パシパエと牡牛の間に牛頭人身の怪物ミノタウロスが誕生するのです。困ったミノス王は名工ダイダロスに命じ、入ったら出られない迷宮ラビリンスを造らせ、そこにミノタウロスを閉じ込めました。

時が流れ、ミノス王との戦いに負けた都市アテネは、数年ごとに少年少女7人ずつをミノタウロスへの生贄として貢いでいました。その何回目かのグループに入っていたのが、英雄テセウスです。ミノス王の娘アリアドネはテセウスに一目惚れし、彼を助けようとダイダロスから脱出方法を聞き出します。そしてアリアドネはテセウスに短剣と魔法の糸の片方を渡し、自分はもう片方を持ちました。迷宮に入ったテセウスはミノタウロスを短剣で倒し、糸を手繰りながら出口に無事戻ります。これがクノッソスの迷宮の神話です。その後の登場人物たちの運命も面白いので、この先はギリシャ神話をぜひ読んでくださいね。

ヨーロッパ最古の文明と言われるミノア文明

さて今度は神話ではなく、「ヨーロッパ最古の文明」とも言われる歴史上の「ミノア文明」についてです。文明の名前は、先に紹介した神話の「ミノス王」から名付けられました。この文明がクレタ島に栄えたのは、紀元前2000年ごろから紀元前1400年ごろのこと。エーゲ海の他の島だけでなく、エジプトやフェニキアなどの遠方とも海洋交易を行っていたクレタ島の諸都市の中でも、最大のものがクノッソスでした。この宮殿には城壁がなく、侵略をほとんど受けることがない平和な時代が続いていたといわれています。ただし強大な海軍は持っていたようです。宮殿には巨大な貯蔵庫があり、各地からの物資を再分配していました。文字は線文字Aが使われていましたが、この文字はいまだ未解読なので詳しいことはわかっていません。

繁栄したミノア文明ですが、前15世紀頃に突然崩壊します。原因は大地震や自然破壊の影響など諸説ありますが、はっきりしていません。ギリシャ本土のミケーネ人が侵入したのかもしれません。前1375年頃、クノッソス宮殿は焼失し、ミノア文明は滅びます。

高台にあるクノッソス宮殿跡

高台にあるクノッソス宮殿跡

クノッソス宮殿に立つ

イラクリオンからバスで約30分、私はクノッソス宮殿の遺跡に到着しました。宮殿の大きさは一辺約160m。宮殿は神話の「迷宮」を連想するように1200とも言われる部屋が並び、高い部分は4階建てだったそうです。しかしクノッソス宮殿は前述したように大火災で焼失したので、残っているのはほとんどが土台の部分だけ。なので想像力を働かせても、なかなか当時の姿をイメージすることは難しいです。また修復が少々イージーで、再現されて着色された柱などはコンクリート製でした(当時はたぶん木材だった)。遺跡にある壁画もすべてレプリカで、本物はイラクリオンにある考古学博物館にあります。なので、そちらを先に見てから遺跡を訪れるのもいいでしょうね。

宮殿にあったフレスコ画には、のちの古代ギリシャのような武力を誇示する男臭いものはありません。「パリジェンヌ」と名付けられたカールした髪型の女性や、のびやかな「牛の上のアクロバット」など、明るく華やかな表現のものが多いです。

クノッソス宮殿を見学する人々。遺跡にある壁画はすべてレプリカで、本物はイラクリオンの考古学博物館にある

クノッソス宮殿を見学する人々。遺跡にある壁画はすべてレプリカで、本物はイラクリオンの考古学博物館にある

クノッソス宮殿には多くの観光客が来ていました。みな神話のラビリンスを想像していたのでしょうか。セミが鳴くギリシャの初夏、私は遺跡に立ち、3500年前にここに生きた人々の姿をしばし夢想しました。

ギリシャ神話の中のクノッソスの宮殿は、ミノタウロスの恐ろしい姿もあり、どこかおどろおどろしい印象がありますが、実際のクノッソスはその逆で陽性の雰囲気を感じました。神話とは異なり、実際には専制君主的な王もいなかったようです。そもそもミノア文明は、神話が作られた時代よりも1000年あまり古い時代の文明だったので、神話とは別物だったのでしょう。そんなことを本やネットの中の知識でなく、現地に立って肌で体験できるのも“一生モノ”の旅ですね。

前原 利行

日々、自分の興味があるものを追いかけています。音楽、映画、アート、歴史、そしてまだ見ぬ世界の風景や文化…。心に刻まれた一生モノの経験が、自分の最大の財産でしょうか。これからも、まだ知らない出会いを探していきたいと思っています。

前原 利行
この記事を書いた人

この記事を書いた人前原 利行

201902/06

「いまを生きている」実感しかない!  一人旅は、禅かマインドフルネスか

 
海外一人旅は「自分VS.世界」、一対一の特別な時間 

海外一人旅は「自分VS.世界」、一対一の特別な時間

一人旅をしたことがありますか? 「無理!」「絶対したくない」という人も多いようですね。私はここ数年、たいてい一人旅です。お正月やGWなどにしか旅行に行けなかったころは、休みが合わせやすく誰かと行くこともありましたが、時間が比較的自由になったいまは一緒に行く相手が見つからず、一人で行くことになります。でも、もともと一人でいるのも好きなので、とても楽しいです。一人で旅行していると連れの誰かと話すことがありませんから、旅の時間のすべてを一人で受け止めることになり、その面では「コスパがいい」ともいえる気がします。今回はそんな私の旅のスタイルを紹介します。

一人でいると、風景も音も匂いも、最大限に心に刻まれる

一人でいると、風景も音も匂いも、最大限に心に刻まれる

身体も心も、とにかく忙しい!

一人旅のあいだは、本当に忙しいです。身体も忙しいですが、心も忙しい。どこへ行こうか、何をしようか、常に自分で判断しないといけないからです。せっかく来ているのですから、どうすればいちばん有意義か、楽しいか、そして早いか安いか安全かなども考えながら、瞬時に決断することの連続です。

どこへ行くかを決めるのも、それを手配するのも、自分次第

どこへ行くかを決めるのも、それを手配するのも、自分次第

そしてちょっと歩けば次々に新しいものが目に飛びこんできて、未知の体験が待っています。感動したり、感心したり、笑ったりすることもあれば、驚いたり、しんみりしたり、あきれたりすることもあり、心のほうも本当に忙しいのです。

一分一秒の密度が濃い、一人の旅時間

次々と何かが起こるので、撮った写真を見返している時間もありません。たまに必要に迫られ、さかのぼって見ることがあると、たとえば昨日撮った写真がとてつもなく前のことのように思えます。「これが昨日の出来事?」と驚くのは、そこからすでにいろいろなことが起きている証拠でしょう。写真を見返しながら、この数日だけでも、なんてたくさんのことがあったのだろうと思い知ります。しかもほとんどが、現在の頭の中からは消えているのです。

それはまさにその瞬間、瞬間を必死で生きているということではないでしょうか。過去を後悔している暇もなければ、遠い未来を心配する暇もない。私は気づきました。これはもしかして「いまを生きる」という、禅の教えに通じてはいないだろうか?と。 最近注目されているマインドフルネスにも近いような、「いまにフォーカスする」状態です。たとえば日常生活で犬の散歩をしているとき、犬は風の匂いや大地の感触をおおいに楽しんでいる一方、自分は悩みにとらわれて、「いま、ここ」にいない…。それを改め、いまを意識して生きることが心の平安につながるという考え方です。

「いまを生きる」って、簡単そうでむずかしい…

「いまを生きる」って、簡単そうでむずかしい…

必然に迫られて、「いま」だけを見ていた

禅やマインドフルネス。私もそういったものに興味を持ち、ときどき思い出したように試してみることがあります。「いまに集中して、この瞬間を大切に生きよう」と、考え方のクセを直す練習をしたり、瞑想に挑戦したりしましたが、長続きせずに終わっていました。しかしこれまでどうもうまくいかなかった、続けられなかったことを、旅のあいだは自然に行っていたのではないかと思えてきたのです。一人の旅は、いまを見つめてその瞬間を懸命に生きる、そんな時間の連続でした。

心のどこを開いて、どこを閉じるか。旅のあいだは、日本にいるときとはそのバランスが違っています。新しく起きることをおおいに受け入れる態勢にし、「いま」に対して心を大きく開く一方、自分を見つめる割合は小さくなります。まさにインプットばかりの状態なのでしょう。起きたことを後々ゆっくり思い出したり、考えたりする気ではいるけれど、とりあえず「いま」ではない。いまはするべきことがあるのです。そして時間が経ってふり返るころには、あのときのトラブルなど大したことないと思えるし、よかった思い出は忘れないようにしようと再確認したりして、自分にとってよい方向に処理できるのです。

知らない土地では、気持ちが自然と「いま」に向かっていく

知らない土地では、気持ちが自然と「いま」に向かっていく

一人旅は心の初期化にうってつけ

旅に出て、日常を忘れる。それは単に問題から目を背け、つかの間忙しくしているだけの「現実逃避」では?とも考えました。楽しいことで忙しいから、あんなにも集中できるのでしょう。でも旅だって、人生の一部。現実なのです。そして旅によって心はリセットされ、帰ってくればそれまでの日常も、行く前とは違った見方ができます。心は初期化されたパソコンのようにスッキリ、パフォーマンスも上がるような気がするのです。

もちろん、しばらくすれば旅の余韻は遠ざかっていき、前のようにまた過去を思い悩んだり、先のことを心配したりする日々になります。それでも行きづまったときに心の軸をどこに持って行くか、旅のあいだ一人だったからこそ必然的に身に着いた、あの感覚が役に立つのです。自分の深い内面とは距離を置き、いま起こっていることだけを大きく受け止める、あの心の持ち様です。

そしてリセットが必要だなと思ったらまた旅に出ればいい、そう思っているだけでも、気はラクです。禅やマインドフルネス、それぞれの本来の教えからは少しずれているのかもしれません。でも旅の最中、「いまを生きている」実感に満ちていたのは確か。人一倍、雑念や執着にまみれている私でも(?)です。否が応でも自分を違う次元にもっていってくれる一人旅。もしまだしたことがなかったら、一度試してみませんか? 人生観が少しでも変われば、それは“一生モノ”の経験です。

Chiri

人知れず旅に出て、ひっそり帰ってくるソロトラベラー。地元の人でにぎわう街をウロウロするのが何より好き。世界のどこかからひそかに持ち帰った一生モノの感動、驚き、学び、気づき…そんなあれこれを、ここに打ち明けさせてください。

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